アイディアが出せることと、意欲があるってことは別物なのかも。/社会をこうしたいとか、一周まわって”ない”。

大学生のころ、地域の商工会青年部のメンバーが「地域と一緒にイベント企画をやらないか?」と学校を通してもちかけてきてくれたことがあった。その時の会議に参加をして「MIHAMA F-es〜地域の魅力発掘市」というのはどうか?という提案をして、採用されたことがある。福祉の大学に通っていたこともあり、F=”ふくしの心”と意味をもたせて、それぞれのes(人間の根源的なパワー)を引き出すようなそんな場をイメージした名前。その中では、ミハマネー(みはまのマネー)と題して、イベント限定の地域通貨のようなものを発行して、地域の商工業者のお仕事を体験することでミハマネーを獲得できる仕組みと、それを使って飲食や買い物ができるようにもした。これはある程度の予算組と呼びかけをすれば、継続的な取り組みとしても活用できるものだったと思う。

ほかに、とても素敵な古い街並みもあるし、面白い人もたくさんいるから、夜市のようなものをやりたいんだよね。しかも、ひと月に一度の満月の夜にやるのはどうかなあと。と、ちょっとした相談があった時には、”月の夜の市”ってキーワードと”月に一度”って言葉をひとつにして、そこに町の名前を合わせたらいいんじゃないか。そうすることで、その名前を口にするだけでイベントのコンセプトが全部伝わって行きやすいよねって考えて「ツキイチオオノ」って名前を提案した。実際に、それで、月に一度、大野町ではイベントが開催されてる。次回で第9回目になるそう。2023年の2月に、ぼくもコーヒーとガトーショコラで出店する予定◎

ゴミ拾い活動とかって大事だよね。って友達とお話ししてた時に「いやでも、ゴミ拾いを目的にした活動って疲れちゃうよね。」という話になったから、それなら、お散歩がてらゴミを拾うようにしたらどうかな?あくまメインはお散歩にして、健康的に。ちょっとゴミが見つかったらゴミも拾っちゃうみたいな。そうしたら次第に、ゴミを拾ってるのが散歩になってたり、お散歩してるのがゴミ拾いになってたりして、より動くから健康的にもなるよね。しかも参加メンバーとつながりもできて、楽しいし。そしたら、その活動って「地域ゴミ拾い活動」みたいな名前じゃなくて「さんぽがてら」にしたら?これも実際に活動が始まってる。裏テーマとして、Sanpo ga Tale (さんぽが、Tale”物語”になる)といったもの。偶然の出会いが、また生きがいになったりもするかも。そんな願いを込めた。明日で第3回目の活動になる。

.

と、ここまで書いたところで「あ、この人は活動的な人だな」みたいなことを思ってくれたとしたら、それはそれで有難いことなんだけれど、どうもそれはちょっと違うから落ち着いて聞いてほしい。

ぼくは「やりたい」と思って提案してるわけじゃない、のだ。ただ、そのように思いついたよ。という感じ。なんというか、ダジャレが好きなだけなのかもしれないなあ。これも自分のアイディアだと思ってもなく、ただ、目の前にならべられた要素を「くっつけた」という感覚かも。

(でもなんとなく、勝手に使われたときに「ああ、それぼくがいってたやつだなあ」とはなんとなく、思ったりもする。だから一端の所有欲をもってアイディアを捉えてるんだなとも、思う。勝手、とかもないのにね。)

ともかく、やりたいと思ってるわけじゃない。ただ、そういう意見がありますよ。というだけというかね。

ただこうやって書くと「ああ、この人は意欲がないんだな。」とか「やる気がないんだな。」とかそういう捉え方になるのも、分かる。でも、それもちょっと誤解して欲しくないなあって思ってる。やる気がないからやらないとか、意欲がないからやらないとか。そういうことじゃない。やる気はないけどやる時もあるし、やる気はあってもやらない時だってあるから。

例えば、地球環境に良いことをした方がいいんだろうなーってのは分かる。だから、海岸に落ちてるゴミを拾おうってなったとするよ。でも、拾っても拾ってもゴミは毎日流れつく。そういう活動をたくさんした後に思ったのは「あれ、ゴミ拾ってもさ、、、」ってこと。

その後に「じゃあ、このゴミを使って何か活動をするのはどうか。」ってことを考えた。今でいうところの”アップサイクル”ってやつ。もっと昔の言い方したら”もったいない精神”ってやつかも。それで、海岸に落ちているプラスチックゴミを使って、魚のモチーフを作って、それによって毒されている海岸があること、魚がいること、それは巡り巡って自分たちの体に戻ってくるんだよってことを伝えようとした。

でも、そこで気づくんだ。

あ。これって、ゴミがなきゃできない活動じゃん。

って。

ゴミを無くしたいのに「ゴミがないと自分が困る構造」を作っているのは、おかしい気がする。そんな感じがした。

ぼくは、意欲がないわけでも、やる気がないわけでもない。ただ、やったところで感が拭えない。それは思考実験の先に見えたものではなく、ぼくサイズの実践をともなった実感から見えてきたもの。

その繰り返しの先で、思考実験をするようになった。

ゴミ拾いだけを目的にした先にあるものは「ゴミ拾いしてたって、誰も感謝しないじゃないか。とか、あの人のゴミが大量に落ちているのにあの人は参加しないのか、とか。毎日拾ったところで、解決しないじゃないかって気持ち。」だったりする。もちろん人によるけれど。もし仮にそういう人が多いのだとしたら、さんぽがてらゴミ拾いすることにして、つまり、目的をお散歩とか人との交流みたいなところにして、ゴミ拾いはついでくらいにしたら継続しやすいんじゃないかって思ったというだけ、というかね。

ほかにも、リサイクルって本当に環境にいいんだっけとか。環境に良いことをしようって時に、ヴィーガンであることとの関連ってそんなに強いんだっけ。”健康”っていうワードと一緒に環境を考えていいんだっけ。古いものを使い直すのはいいけど、その時に使う”水資源”は、多分思ってるより汚してるけど、そこは大丈夫なんだっけとか。そもそも、無駄みたいなものがあるから、本当に必要なものが明確になるのも、世界の理(ことわり)だよなあとか。捨てるところがあるから、使うものの価値を感じられるよなあとか。そういうことを考えるよ。

やりたいから、意欲があるから、やる気があるからってことじゃない。でも、そういうものが全くないってこともない。ただ、そういうことと、アイディアや思考が出来る事はまた別の話なのかもなあ、と、そんなことを思うわけです。

社会をこうしたいとか、一周まわって”ない”。

と、そんなことを思ってると「環境に良いことを。」みたいな思想を語るのに、全然正当性を感じられない。となると、主張できなくなった。地球を良くしたいと言いつつ、それがなければ生きられない設計や、新しくものを増やしたり、一時的にゴミを延命させるような活動も少なくはない。実際に経営ということを考えると、商品が必要になるし、パッケージは必要になるし、宣伝のためのチラシや広告も必要になる。それは、一時的な資源の活用であり、無駄をつくり出すこととも言える。じゃあ、それをリサイクルすれば問題は解決されるのか?そんなはずはない。

リサイクルできる許容量は、もうすでにその域を超えているところまで来ている。そのことも知っているのに、一体何を持って「環境に良いことを。」なんて主張できようかー。

というのが、ぼくの気持ちだ。いってみれば、臆病になっているのだ。その主張の向こう側に、主張に反する何かがあると、気づいてしまうことがあるから。

ぼくは、自分の手の届く範囲のことやものや人と手を繋いで生きていけるのが、一番の幸せだ。それ以上のことは望まない。ただ、それだけでいいのだ。その人が何を目指しているのかが主張されないお店は、応援されないような、そんな風潮がある。逆に、何かを目指すことで、応援は集まる。でも、ぼくには、そういうものがまるでないんじゃないかと思う。

それでいいんだと、思う。それでいいのかとも、思う。ないものはない。それは「”ある”と主張できない理由があるから」だ。主張できないのは、こういうことを話し合える友達がいないからだ。語ったとて、ものごとは進む。それで動いていくコミュニティがあるなら、この社会はそれを「多様性」と名付けたのだ。だとすれば、それはそれで正しいのだと思う。

実際にやっていることと、課題の解決は、必ずしも直結してない。仲間とつながっているための口実として、課題の解決を掲げている場合もある。だから実際にやっていることは、ただのご飯会だったりもする。でも、そういう無駄な時間こそ、必要だったりもする。

無駄があるから、繋がれる。無駄があるから生まれるものもある。そういう無駄の集積を、そこから生まれた問題をー、解決するために、ぼくたちはまたこの無駄とも言える茫漠とした人生を、明け渡す。

そうやって僕たちは、生きている。

ぼくはぼくで、手の届く範囲のことやものや人と手を繋いで生きていきたい。それで十分。それで、いいのだ。

さてさて、今日もボスベイビーで英語を勉強しながら眠ることにいたしましょう。それでは、今日も素敵な1日を🌿