旅は、今ここにあり、その先にいる。

どうも、izumikunです。

何もかっこいいことを言おうとしてるわけじゃあないんです。今日ね、友達と魚文(うおぶん)というカフェに行ってきたんです。もともと仕出し屋だったお店に帰ってきた娘さんが、イギリス留学をしていたほどのイギリス好きをたっぷり注いだ世界観のカフェに改装して、小さなカフェをやっています。店内のイギリス感やインスタにうつっている世界観に比して、お店の看板がいまだに「魚文」という昔ながらの漢字の看板なのがとても好きです。看板は、分かりやすいに限ります。

そんな魚文に、旅好きのグラレコ料理人あまのと一緒に行ってきたんだけど、案の定、旅の話に花が咲き、営業時間も超えてずっとお話してました。雨降りということもあって、マスターもたくさんお話しにお付き合いしてくださって、イギリスの暮らし、日本との文化のちがい、旅の仕方、大切にする価値観、いろんなお話をしました。

そして「izumikunは、旅とか行きたいってありますか?」と話を振っていただいたとき、izumikunの旅感みたいなものの輪郭がよりはっきりしたような気がしました。

あまのは、izumikunのことをよくよく知ってくれているので、ぼくがさっきの質問をされたときに「でも、izumikunって、あんまり興味ないですよね?」とすっとパスを出してくれました。

ぼくは、旅をすることは人生を豊かにするきっかけをくれます。受け取れるかは、その人の器量によりますが、そのきっかけや気づきは、旅の中に起こるあらゆる出来事において、散りばめられていると思っています。だから、旅をすることは素敵なことだと思います。

そして「人生の豊かさは移動距離に比する」と聞いたこともありますから、高橋歩さんとか四角大輔さんのように、ただひたすらに旅を楽しんできた人たちの豊かさのありように、ただならぬ大きなものを感じるのは、そういうことなのかもしれません。

でもぼくは、その「距離」という言葉は、物理的距離と感覚的距離にわけることができると考えています。つまり、旅というのは、物理的に「遠い場所へ行く」ではない。自分の内なる未知への探究もまた、旅である。これが、ぼくが考える感覚的距離を歩く旅のことです。izumikunの場合、そういう旅をずっとずっと小さい頃からしてきました。

また、物理的距離においても、たとえば、日本からアメリカへ行くという直線的な距離で「遠い/近い」を図ることもできるけれど、もう一つの見方もできます。自分が暮らしている町の中、つまり、生活圏内でどれだけの移動をしているかです。旅と暮らしは、風と土のように、一対として語られることがありますが、旅の距離は非常に直線的な距離で、暮らしの距離は蓄積されていく距離で、ぼくが大切にしているのは後者。

ぼくは、20ヶ国以上の国を旅しましたが、その上で「蓄積される距離を歩きたい」と思うようになりました。それはつまり、旅先になるということです。

旅先である地域やコミュニティや暮らしというものは、人と人との有機的な連帯によって成り立っていて、そこに参画したり、維持したり、政(まつりごと)をつくり祭りを機能させたりといったことをしていくところにぼくは「旅」を感じるのです。それを実行したり、機能させたりするには、人から人へ、場所から場所へと移動しなくてはいけないからです。つまり、旅とは遠くへ行くことではないといえます。