淡々とやる。/ミエハルにならないよう。

淡々とやる。

誰がなんといおうと。誰がどんなに先へ行っているように見えても。たとえ遅いように見られているなと分かったとしても。

淡々とやる。

勝手な推測だけの、淡には、水と炎のどちらもが混在してる。淡々とやるのは、落ち着いてやるみたいな意味に聞こえるけど、少し違うと僕は思う。

淡々と。というのは、その落ち着きの奥に潜むかすかな熱量を感じさせるものだ。そしてそれを、々(おなじ)にして、繰り返してゆく。

自分がこれをやると決めたなら、一旦はやってみたり、やって見続けてみたりしても、何も足踏みなどではない。確かちょっと良くなっていってそうな気持ちでいたら、それでいいよ。

淡々と、淡々とやるんだよ。

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名古屋の人は見栄っ張りだとかは、よく耳にする。聞こえは悪いけど虚栄心ってやつで、自分を大きく見せたいという気持ちを、奥底に隠してる人が多いのかもしれないね。

それにしても、見栄を張るってのは、大変人生をおかしなものにする。良かれと思ってやったのに、結局その「優しさ」が無駄になったときに「なんだったんだろう、無駄なことしちゃったな」となることがある。

それに、案外だれも気にしていないところで、ある一定のステータスにいると思ってもらいたいから、そのように見栄を張って背伸びした服を着てみたり、ない袖をふるったりしてみる。

その結果、誰にも結局評価されることはないまま、自分がそうしたいからそうしてるのよ。だなんて、自責にむりやり持ち込む。でも最初は、社会的な欲求、承認の欲求によるものなんだから、最後の最後で自責思考にもちこむのは、少し本筋から外れてるようにも思う。

とかく、見栄を張るってのは、求めてることが達成されない。これはもう検証済み。たとえ達成されたとしても、その効力はすこしのあいだのことで、長くはもたない。

でも、こういう見栄というのは、礼儀のようなものと隣り合わせだから、やっかい。

「ご祝儀」とか「もしご協力してもらえたら」と言った表現があったときには「常識的に、、、」なんて考えがちだ。

でも、そんなことはある一定のところからは、気にしなくてもいい。

その一瞬の見栄よりも、生活や気持ちが穏やかであるほうがずっと大事だ。2000円払うか3000円払うかで迷えば、2000円で別にいいと思う。

払っても払わなくてもいいなら、払わなくてもいいんだと思う。ぼくはそうしてる。

というのも、今のぼくにとっては、その一瞬の見栄よりも、自分の暮らしが続くための貯蓄のほうがずっと大事なのだ。

3000円が払えないから2000円を払うんじゃない。1000円を残しておきたいから、2000円で勘弁しておくれよ。ってな具合だ。

どちらでもいいなら、払わない選択もある。ただ、払いたいと思うかどうかというのは、懐具合とはまた別の判断軸であることも、ちゃんと分かっていられたらいいなと思う。

そんなわけで今日は、ミエハルにならないようにぐっと堪えたひとときがありましたとさ。

それでは今日も一日を🌿