午前中はずっとブログを書いたり、音声を聞き直したりしてた。午後の夕方からは、チエさんのお通夜でした◎
たくさんの僧侶の方々と、たくさんの親族に囲まれて、弔いの時間をー。今日来てくださった方々もあり、それ以前に「当日は行けないから。」といって来てくださった方がいたり、本当に愛されていた人だったんだと、改めて思うわけです。
親戚の関わりとしては、そこまでは分からないものなのです。話そうと思えば、気恥ずかしくってはぐらかしたり、聞いたところでよく分からない業界の話になったりして難しかったり。どういうわけか「興味を持った」としても、なかなかその距離は縮まっていかないもの。とくに、物事がわかっていないような時には。
今でこそ、ほんの少しだけいろんなことが見えやすくなって来て、ようやく「知りたい」と思えるようなことが増えてきた。そんな時がちょうどタイムリミットで「もっと話を聞いておけばよかった」ということになる。英語や株に堪能だったおじいちゃんには今こそいっぱい聞きたいことがあるし、尼僧さんだったチエさんにも、仏法のことについてもっと話を聞いていたかった。
それでもどういうわけか、日々の喧騒に揉まれているうちに、そういう大切なことを見落として、気づけばもうそこにはいない。物事は早いうちに伝えておくべきだし、物事は早いうちに受け取っておくべきなんだなと思う。そうしないと失うものが大きすぎる。本当に難しいことだけど、これから先も似たような出来事に出会い直していくんだろうな。
説教の時間があった。説教は、教師と呼ばれる僧が担当した。これを聞いた時
「教えを説くことができる人を、教師と呼ぶのだ。」とわかった。教師とは、教えるのではなく、説くのだーということがわかったのだ。しかも、説教とは「怒って躾ける」ようなイメージとは程遠い。
青山先生の言葉は、もっとただ静かに、語りかけるようなものだった。
水の話、真理の話、テーブルに置かれたものをいただく話。
ぼくの考えも、その道にあると思えた。確かに道を歩んでいると思えた。大丈夫だよと、声がしたような、してないようなね。
家に帰ると、ぼんちゃんから「アップしたよー」と連絡があった。
シェアしておくね。
今ここから、できることをしていこう。
それでは、今日も素敵な1日をー。