10,221 STILL ALIVE

人は、死ぬ。いつか必ず死ぬ。そのことをもって、そのことに触れ、いくつかわかったことがある。良いというわけでも、悪いというわけでもなく、ただそのように感じたということを、今日もただここに残しておきたいと思う。

人は死ぬ。

人は死ぬ。そしてそれが、何を意味するか。人の中から魂が抜けて、ただそこには魂の抜けた空っぽの体だけが残る。だから本当の意味で、故人との別れとは、火葬の瞬間ではない。不思議な話ではあるけれど、人を想うとき、僕らは同時に、別れを告げるのだ。不思議な話ではあるけれど、その人が息を引き取ったとき、人は死ぬ。

いや、それは違う。ぼくたちは、ぼくたちの人生を終える時、息を引き取るのではない。

息を、引き取られるのだ。そして今、ぼくは息を引き取るのである。

息つく間に、こそ。

ぼくたちは日々の暮らしをただ懸命に、ただこれ一所懸命に生きている。楽しむように、遊ぶように生きる日々もあるだろう。苦しんだり、悲しんだり、嘆いたりするような日々もあるだろう。怠惰に、ただ堕落したような日々もあるだろう。そのすべてに、息つく暇もなく、ただ歩みを進めているのだろう。

さすれば、忘れる。忘れてしまう人がいる。「人が死ぬのは、忘れられた時だ」と、雪国で真っ裸になって叫んだ男がいるが、彼のいうことが今になって、本物だということがわかる。忘れてしまいそうな人を忘れてしまわない方法がある。それは、出会い直すということ。思い出して、出会うということ。忘れないとは、覚えているということだ。覚えていようとすることは、忘れないということだ。忘れないということは、覚えていようと、出会い直すことなのだ。

息つく間に、こそ。もう一度出会っておく。魂に、出会い直しておくのだ。ぼくたちは死してなお出会うことはない。もう二度と、本当の意味で、その人に会えることなどなくなる。

出会えるうちだけなんだよ。

仏道を歩いている、途中。

そこにあるのは、空っぽの体。棺の中に、みんなの手で、御詠歌の響く部屋の中で、一つ一つの花を飾ってゆく。死化粧は美しく、祭壇の写真はデジタル遺影で、最盛のその人を映す。花を添えるとき、つなぐ両手に優しく触れた。冷たかった。冷たく、動かなかった。人の温度は、なかった。魂はもう、そこにはなかった。

でも、多くの人の瞳には、水が湧き、頬を流れて溢れていた。御詠歌の響きには、幾らかの感情も読み取れた。たくさんの尼僧さんや位の高い僧侶たちがこの場に集ってくださっていた。

でももう、そこには魂はないのだ。この世界は地の獄、それはつまり地獄であり、だからこそこの道を歩くのはまさに「地道である」というのは至極真っ当なことであり、むしろ、死ぬというのは、極楽浄土への入り口なのかもしれない。つまり、死とは「良きこと」「喜ばしいこと」と捉えることもできる。

しかして、仏の道をゆく人たちもまた、そのことに悲しみ、憂いていた。逆の立場から言えば「忘れられていない」ということは、生きている証であり、その人にとっては喜ばしいことでもある。ならば、拍手喝采で見送るのが、本来の礼ではないか。

ぼくは葬儀の執り行いを見ていて、意味のわからないお経、よくわからない楽器の音、そういう「響き」のようなもので、そのことを示しているんじゃないかとも思った。楽しく笑って送り出すというものではなく、慎ましく、厳かにありたい日本人らしいふるまい、儀礼。

仏道の門を叩くものたちでさえ、進行がうまくできているかと悩み、怒り、焦る。そういう気持ちもある。ぼくたちは人なんだ。人として、理屈を超えたもので生きている。それがとても美しいと思えた。

空っぽになる前に、この仏道を楽しく味わっていきたいね。未完の賜物。まだ旅の道中なんだから。

90分で、骨になる。

葬儀場について、棺は2番火葬炉へ入れられた。「1時間半ほどで。」と告げられた。魂の抜けた体が、燃え尽き、骨となるのにたった90分だけのこと。

しかもその間に、お昼ご飯の仕出しをいただく。食べ終わる頃には、いろんな話になり、楽しくさえなってくる。

時間になり、骨を二人1組で骨壷に入れる。ぼくが兄と一緒にうつしたのは「肩甲骨」だった。

ずいぶん前に、みうらじゅんの最後の授業を聞いた時「俺ら、最後どうなるとおもう?ここ、おでこからこんがり焼かれちゃうらしいよ。」って言ってた。

本当におでこからかは分かんないけど、こんがり焼かれて、骨になってた。たった90分のことだった。しかもそれは、お弁当付きである。

人生はそうやって終わるのだ。

しかして、人は終わらない。

魂は抜け、残った体さえ大火に滅され骨となる。もはや、その人が「いる」とはいえず、「ここ(胸の中)にいるとは言える」かもしれないが、戸籍上「いる」とも言えない。でも、その残り香は、ある。線香のように細く長く生きた人生の、最後の「覚えていて、私をー。」という香煙が、その地獄には残ってゆく事になる。

相続、通帳、名義、契約、あらゆることにおいて「本人がいない。」ということは、全くもって難しい状況を作る。その人がどのような立場にあったかー、というのは、非常に難しい問題になる。

たとえば、周囲から見れば、一般的な「家族」とみえたとしても、戸籍上では「養子である」とかそういった事情一つで、手続きをできる人が限定される。それは、残された人にとって大きな問題として残ることを意味する。

「その人」は、残る。

ぼくたちは、残したいと願う。しかしてそれは、残るものたちにとって「良きこと」であるかは、ちょっと分からない。いろんなものに登録して、色んなものを自分と結びつけることによって、ぼくたちは自分を自分たらしめる。

死ぬ前に、いや、いつ死んでもいいように、結びながら、解きながら、解きやすくしながら、生きる。このことと、命を燃やすような熱量を併せ持つのは、とても難しい。それでもこのことと日々、向き合いながら、生きていく必要があるなあ、と思った次第であります。

今日も素敵な一日をー。