大人の勉強夜会をはじめてみて、いろんな人の夢をみることが増えた。

ぼくには、夢がない。やりたいこともない。未来に希望をもっているわけでもないし、世界を変えたいとエネルギーに満ち溢れている訳でもない。ただ、自分の甥っ子にかっこいい大人の背中を見せたい。いや、ぶっちゃけ見てもらわなくてもいい。ただただ、そんなイメージで生きている。ただそれだけのこと。多くの人が言葉にするような、そういった類の「明るさ」は兼ね備えていない。ただ、繰り返すようだが、ぼくは甥っ子にかっこいい大人の背中を見せてやりたいだけなのだ。今風に言えば、ペルソナ=甥っ子だ。

大人の勉強夜会には、いろんな人が集まる。ボードゲームイベントを主催する元教員の塾講師や海の町に暮らすラッパー、電気工事の仕事をしながら古民家で飲食をする経営者とか、言語を学んで友達を作るのが趣味な陶芸作家とか、スパイス料理が得意で移動しながら生計を立てるマルシェ出店者とか、食べることが大好きで生徒の相談事にもちゃんと付き合えるデザイン学校の先生とか。人の数は大したことではありません。ここに訪ねてくる人は、本当にそれぞれの場所で、輝いています。

そして、輝きながらも、その場所から夢を見ています。そして、それぞれの困難を目の前に、苦悩も抱えています。大人の勉強夜会は、そういうことも分け合える場所です。ぼくは人の夢を、応援します。ただ、できるのは応援することだけで、実際に手助けできる訳ではありません。本当の意味で手助けできる時というのは、手助けしてほしいとその人が心の底から願っている時だけだからです。ぼくは、誰かの苦悩や困難を一緒に見ることにしています。そのさきに「夢」があるからです。その先にある夢を一緒に見ようと思っているからです。輝きの中にある光を、僕たちは見つけにくいものです。でも、暗闇から光を見れば、そこへ向かいたくなるのが人というもの。僕たちは、暗いところにいる時こそ、誰かと出会うといいんじゃないかと思っています。

勉強をするというのは、誰の助けを借りる必要もないことです。自分が自分の学びたいことを学ぶ。その時に、誰かとのおしゃべりは必要なかったりします。でも、そういう「人から見えないところ」を分け合うことで、打ち明けられることも出てくるのです。打ち明けていくと、勝手に僕たちは友達になってるし、それぞれが勉強していることを教えあって、世界をどんどんと広げていくことになるのです。勉強というのは、時間をかけているほど学べてはいません。言葉にすると数分のことだったりします。だから、人から学ぶというのは、自分の世界を広げることにものすごく有用です。そして、ぼく自身も、誰かにとっての「それ」であれば、嬉しいなと思うわけです。

人は、よく人の夢を笑います。そんなの出来っこないって、自分の諦めをその人に押し付けます。ぼくは、そんなことはしません。もし仮にぼくから伝えることがあるとすれば「その道をいくとこういう失敗が考えられるから、こういう心算は大事かもね。」とか「それが達成できたら、どう思う?」とか「今勉強してて、楽しい?」とか、そんなことくらいです。誰かの夢について「ぼくは叶えられないかもしれない。が、君ならできるかもしれない。」そういうつもりでいれば、誰かの夢を笑うなんてことは、胸がもやっとしちゃってできません。まるで主人公の背中を押す村人Aみたいなセリフですが、人は時に、そういう役回りをするのです。

「こうやって場所を作ってくれるから、来れるよ。」って参加してくれたラッパーが言ってくれました。ぼくは「続けることってすごいよな。」という思いで喫茶を始めると決めましたが、決めたあとは少しの不安がありました。場所があるというのは「家賃がかかる」からです。家賃を稼がなくちゃいけない。大丈夫かな。ずっと続けていけるかな。そう思っていました。でも「場所を持っているってのは、強いよ。」と、そういう声をかけてくれる人もいたのです。ラッパーの言葉は、その言葉に少しだけ質感を与えるようなものだなと感じました。

そのラッパーが夢を語りました。

仲良くしてるサイファー(ラッパーをしてる仲間たち)がいるんだけど、あいつらはみんなストリートでノンマイクでやってる。会場を借りたら、自分達で会場費を捻出するためにチケットを手売りしなくちゃいけない。そういう生き方しか知らない。だから、俺はあいつらにマイクを握ってもらいてえ。マイクを握ってやってもらいてえんだ。ここで、ライブできねえかな。

うちは「1日利用1,500円+売上の10%」で場所貸しとして利用してもらえるようにしています。ただで使っていいよ。とか何かサービスと交換でもいいよ。そういうことはしていません。なぜなら、最終的にぼくは、大家さんに「お金」で対価を支払わなくちゃいけないから。大家さんが「君の友達のパフォーマンスで十分だよ。」と言ってもらえるなら、ぼくだっていただく必要はないけどね。ただ、道理だけで作られてる社会じゃないのも事実。もし仮に「出せない」と考えるのなら、MEM.にとってもメリットになるような交渉の仕方がある。物事はYES.かNO.かでしかないが、条件が飲めるならYESだし、条件が飲めないからNOということもある。つまり、差し出せるものは何か。与えられるものは何か。これを考えるということです。

ぼくは甥っ子にかっこいい大人の背中を見せたい。でも、そういう「子供」と呼ばれる存在に対して、無条件に手を差し伸べるつもりはありません。あくまで、目の前のその人の立っている場所から、少しでも光へ近づいていったらいいなと思っているだけなのです。暗闇のままでいいならそれでいい。光へ向かいたくないならそれでもいい。だから、光を夢と言い換え、立ち向かう人の隣にだけ、ぼくは在りたいと思う。大人の勉強夜会というその時間は、そういうところなんじゃないかって思うんです。

大人の勉強夜会は、かっこいい大人の背中をたくさん作る場でもあります。来てくれる方からは、参加費として500円をいただき、そこでの勉強時間と常滑急須珈琲をプレゼントしています。でも、それではただの喫茶です。うちでやる必要はありません。なので、うちのテーブルに置いてある小さなノートに、今日の学びをアウトプットしてくれたら、代金は戴かないことにしています。もし仮に、ノートにアウトプットし、それでもいくらか置いていきたい。そういう人がいれば、それはありがたく頂戴することにしています。気持ちを受け取ることは、ルールよりも大事な時が、あるのです。道理では説明できないことが、世の中にはたくさんあります。

でも、ある一定の体系的な知識や知恵が、世界を作るのもまた事実。この世界のあらゆることを知ることが、学びであり、勉強をすることです。そして、そのプロセスにおいて、思いもよらぬものでしたが、人の夢を見ることができています。

これは、ぼくの人生にとって価値あるのものに、間違いはないでしょう。毎週月曜は大人の勉強夜会。小さく、細く、長く、続けていきます。

そういうわけで、
今日も素敵な1日を🌿