まとめきれない雑多な話をいくつか『文化の紡ぎ方』

izumikun

文化ってなんだろう。

そんなことに関心を抱いていると、文化にまつわるいろんなエピソードを聞く機会があります。そんな中で見えてきたことがあるので、ちょっと整理のためにつらつら書いてみます。

文化の衰退の背景を、自分なりに考えてみた。

地方消滅、限界集落。そうした言葉とともに、地域の伝統・文化が消えていってしまうことを危惧するような時代にあります。ハレとケのような慣習や儀礼といったこともなくなってきているようです。つまりそれは、祭りや工芸のようなものの担い手が少なくなってきていることを意味します。

この背景には、

  1. 都市化と働き先の確保
  2. 車社会化とコミュニティの喪失
  3. 職業選択の自由、個の尊重

このあたりが関係していると考えています。

【都市化と働き先の確保】
地方よりも都市。その憧れ。東京に出たい。そういった憧れと同時に、地方での仕事が減少していることを理由にして、東京に働きに出ることが潮流だったようです。これが地方から都市への「人口流出」を表しており、地方にあった伝統や文化の「担い手の減少」にそのまま直結したんじゃないかな。

【車社会化とコミュニティの喪失】
今じゃ、地方にいると「やっぱり軽トラがないと、やってらんないね。」というのが常識です。でも、元来、車なんてなくても自然豊かな場所で暮らしていたはずです。それほどまでに、この世界は「車社会」となりました。このために、土だった地面(面は、土也り=土でできている面)は、アスファルト、コンクリートになりました。車が交互を行きかえるように、4メートルほどの車道を作るようになりました。こうして、人と人との距離が「遠くなった」のです。家と家とがぎちぎちに立っていた頃は、否が応でも、コミュニティがあったのです。コミュニティというのは、人と人との精神的な連帯があるもので、それは物理的に断絶されることとなった。それはつまり、一緒にやろうよ!ってことがうまく機能しなくなって、儀礼や慣習や祭礼の「担い手がいなくなった」ことにつながったんじゃないか。

【職業選択の自由、個の尊重】
ちょっと時代の詳細は分からないけど「家業」というものに対する意識が薄れていったり、農業以外の「ホワイトカラー」が目立つようになった。それはラジオ・テレビといった発展もあったりして情報がリアルタイムに近い形で届くようになった。パソコンを使った仕事もこの頃から生まれて、今や普通だけど、ものすごく急激な発展をした先に今がある。そうした職業の分化、専門家が進むにつれて、東京という都市にそうした仕事の担い手を求める求人が増えた。個人の尊重と、若者の都市への憧れの両面が、それを加速させたんじゃないかな。

要するに

いろんな理由で、人が文化圏(コミュニティ)から消え、担い手不足によって文化も消えそうになってる。なぜなら、文化は人や人の連帯(コミュニティ)が作り出しているものだから。

そうした現象に歯止めをかけるべく、地域おこし協力隊という制度が生まれ、いかに地域の伝統文化や産業を衰退させることなく再興させるかーに注力されることになりました。また、移住者を斡旋するようなビジネスが生まれたりしました。例えば、地域の伝統文化やその楽しさを伝えるようなフリーマガジンが生まれたり、ツアーが生まれたり、アクティビティと呼ばれる「自然体験」が多くなったように感じます。

また、税金を使った支援システム「ふるさと納税」というものも生まれ、住民税優遇というのをキャッチポイントとして、多くの人が使うようになりました。結果、地方にある産業がうるおい始めているという現状にもつながっています。

また、文化そのものを「知識」として捉え、その消失を防ぐために、博物館の建設もあります。近頃では、ウポポイというアイヌ民族の文化を展示する施設も生まれました。

で、オークランド博物館で展示を色々みたり、武豊にある歴史民俗資料館の醤油作りの展示模型を見たり、中埜酒造の酒の文化館を見たりして気づいたことがありました。

その問題提起が

文化って、保存されるものじゃなかったはず。

ってこと。細かいことは ↓ に書いてます。

さっき書いたように「文化って人が作るし、人がいなけりゃ文化は廃れる」ってことをよくよく知っていると、文化は保存したところで、それは果たして文化なのか?という問いが生まれるわけです。なぜなら、文化は人の生活そのものなんだから。

ここで、新しくエピソードを書くと

先日「ダイアローグ」っていう対話イベントで「常識」をテーマにした話し合いをして、参加者が話してたことがとても象徴的でした。

参加者

今の人は、焼き芋がしたいから、焼き芋してる。昔は、違った。落ち葉がたくさんある頃に、みんなで落ち葉を集めたんだよ。それをみんなで燃やした。その中に芋を入れて、焼いたの。それが、焼き芋でね。燃え残った枯葉の灰は、そのまま畑に撒いた。

火鉢もそう。火鉢で餅を焼くための焼くのではなくて、火鉢で暖を取る時に、どうせ熱があるなら「餅でも焼いちゃおう」で、火鉢で餅を焼くわけ。

七輪でサンマも同じこと。

これは、ぼくが「エノキの天地返し」で思ったことに非常に近い。

形骸化という言葉がある。これは、人を燃やした時に、骸だけは人の形を残しているけれど、その中身はまるでなくなった状態を表してる。保存された文化というのは「形骸化した文化的な行為」といえやしないだろうか。

“遺産”という言葉について。

遺された産物。世界遺産、日本遺産。

ここには本来「受け継いでゆくもの」という確固たる意志があるように考えてた。ただ、現実は少し違う方向にも動いているように見える。

文化や美しき景観が「遺産」として登録されることによって「観光資源」としての役割を担うことによって、その必要性が生まれ「イベント」や「集客装置」としての側面を持つようになった。

つまり、自分たちコミュニティのための祭礼ではなく、誘客のための文化的行為というふうに変わってきていることを意味してる。

無形文化遺産というものがある。「形はないけれど、それはこの国の文化であり、遺されるべき産物である」と認められたもののこと。

消えるよりは、いい。

しかし、文化が「生活の総体を表すもの」であるなら、文化「的」行為から共同体文化(コミュニティのカルチャー)へと、回帰する必要があるのではないか。とも考えてる。

これを考えるためのエピソードを3つあげると

  1. 文化の継承に関わる「古道具屋の話」
  2. 今は「生活の知恵」というよりスキル重視社会
  3. 文化の創造は「生活文化圏への介入」が鍵

この解説で、今回は終わりなので、もう少しだけお付き合いください。
(ここまでで3000字越えとは、、、何してんだろうか笑)

文化を紡ぐヒント:3つのエピソード

文化の継承に関わる「古道具屋の話」

ぼくは、文化的な営みについて「テクノロジーの前にあるもの/前時代から継がれてきているもの」というイメージで捉えていました。

例えば、常滑にある焼き物や藍染や絞り、お椀を作るための木地師の存在。また、塩づくりや稲作といった自然に由来するあらゆること。いわゆる「手仕事」と言われたり「主は自然であり、人はその助けとなる存在」という考えが当たり前のような世界観。テクノロジーは「人の助けとなる計算機やロボットを作る世界観」なので、全く逆ですよね。

ぼくはそんなイメージで「文化的な営み」あるいは「文化」を捉えていました。でも、これを知らない人が多い。そしてぼくも知らないことが多い。もっと知っていきたい。そして知ったことを伝えていきたい。日本にいるのに日本のことを知らないのは、変だ。おかしい。そう思った。だから、文化というものに興味をもって、調べたり、学ぶ機会をもつようになった。

そんな折、古道具屋をしてる友達がお店に来てくれて、閉店終わりまでお話をしていました。すると、古道具を扱うということがいかに「文化の継承」「文化消失に歯止めに貢献している仕事か」ということを知るわけです。

古道具屋というのは、歴史的・文化的に価値のあるものにスポットライトを当てて、きちんと適正な価値をもって、必要とする人に届ける仕事です。彼女の言葉を借りれば、

古道具屋さん

古道具屋って、文化的なこと、歴史的なことにかかわらず、生活に関わるあらゆることを知っていないとできない仕事だなあって、つくづく思いますね。

具体的には、お客さんの家に出向いて、不用品の中から「価値」を見つけて、買取を行う。それをメンテナンスして「価値を感じる人」に届けるというわけです。しかし、この買取の段階で、生活全般にかかわる歴史的・文化的背景について知っていなければ「価値」を見つけ出すことはできません。

それはつまり、焼却炉へ流れていくベルトコンベアの中から宝石を見つけるような仕事で、本当はぼくたちが暮らしの中に”大切にすべきもの”を代わりに探し出してくれている、この世に残してくれているわけです。

お客さんのニーズとしては

  • 不用品を処分したいが、この中に価値あるものがあれば売りたい
  • 価値がありそうなものだから査定してほしい

こんな感じで、お客さんが話をもっていく段階があるとすれば

  • 骨董品屋さん(鑑定屋さん)
  • 古道具屋
  • リサイクルセンター
  • 資源回収

のような順番じゃないかという感じで、それ故に「消えていく価値」もあるようです。

例えば、鉄器の瓶を骨董品屋さんや古道具屋にもっていったとすると、歴史的・文化的な価値をもったものであれば、この世の中に残すことができます。しかし、鉄器の瓶を「少しだけ傷がついてるから」という理由で、資源回収にもっていったとしましょう。すると、「キロいくら」という感じで、あとは溶かされて新しい製品が生まれることになります。

「文化や歴史的な価値をもつもの」は、この瞬間に消えたり、なんとか一命を取り留めたりしながら、実は身近にあったりする。ぼくたちができるのは、おばあちゃんちにあるような「ガラクタに見えるもの」をむやみやたらに「捨てない」ということだ。ミニマリストか何か知らないが「捨てる=文化価値の消失の可能性」ということも、少し考慮しておく必要があるんだということを、知っておいてほしい。ぼくも気をつける。

ただしこれは、古材を生かす、アップサイクル、環境保護といった文脈とは別で書いています。そういった要素がないわけではないけれど、あくまで「文化の紡ぎ方とは」という文脈です。

今は「生活の知恵」というよりスキル重視社会

ぼくは、人生で初めて正社員になった仕事を7ヶ月で辞めて、それからニートになりました。そして、お金がなくなったり、無駄に家賃を支払う必要がないなと感じて、帰省。しかし家に帰っても、お金をいかに稼ぐかを考えた。なぜなら、お金を稼いでいないこと=趣味であり、働いていることにはならないから、ですね。

「稼ぎ方」を検索すると「スキルを獲得して、フリーランスになろう。」こういうキャッチフレーズがたくさん出てきます。会社に依存することなく、自分の力で生きていこう。そのためには技術=スキルを獲得して、それを生かして生きていくんだ。そういうこと。

で、この時の「スキル」というのはもちろん「お金が稼げること」という意味ですね。

でも「生活の知恵」っていうのは、焼き芋や火鉢の話から分かるように「いかに生活を愉しむか」ってところに喜びがあるように思うわけです。一見似たように思える2つの言葉だけれど、この2つは全然違う。

生活の中にあった知恵である「発酵」というものを取り出すと、例えば「ヨーグルトメーカー」があれば、発酵に関わるあらゆる食品を”少量であれば”作ることができるわけですね。他に、長い時間、低温でじっくり火にかけていくローストビーフなんかも「炊飯器」があればできます。夏の井戸水でキンキンに冷やしたスイカは、夏の風物詩でしたが、今じゃ「冷蔵庫」で冷やしたものを、さらに空間さえ「エアコン」で冷やしてしまうような暮らしぶりです。

暑い夏に体を冷やすための生活文化なのに、冷えた体に冷えたものを入れる、まるで体のことや自然の摂理に反した動きをしている。いわゆる「形骸化した生活文化」を”文化的行為”として楽しんでいるわけです。

スキルがあれば、お金が生まれる。お金があれば、冷えてるスイカを得ることができる。でも、暑い夏に井戸水を汲んで、その冷えた井戸の水でキンキンに冷やされたあのスイカは、もう手に入れることはできないわけです。生活の知恵はもう、そこにはないのです。

生活の知恵は、暮らしにそのまま直結するものです。しかし、スキルは、暮らしにそのまま直結するものではありません。例えば、プログラミングをするというのは、生活をすることや生命を維持すること、コミュニティを円滑にすることに直結するようなものではありませんよね。でも、スキルとして活用することで、お金が生まれれば、生活文化”文化的行為”として「再現」できる。

今は、そういう時代であると、気づく必要があります。

最近、純喫茶が流行っています。これは「おしゃれ」「エモい」という意味合いで、ファッションです。しかし、純喫茶という文化は「俺たちは、本当の喫茶だ!」というカウンターカルチャー的なアクションであり、イデオロギー(主義)の表明によるものなんですね。当時、喫茶(カフェー)は、風俗店のことを言っていたのです。それに対して、純喫茶があったわけです。ぼくが今暮らしている場所が、まさにカフェーがあったような、かつての歓楽街なので、調べましたよ。

少し話が逸れてしまいましたが、僕たちは、どこかねじ曲がった現実を生きているのかもしれないなあ、と感じるのです。だからこそ、文化的行為ではなく、生活文化の営みを、この暮らしに取り戻していく必要を感じるのです。

文化が「生活の必要に応じて生まれた営み」であるなら、今必要のないことをする意味などないのかもしれない。しかし、人間として自然と対話しここに在るのなら、スキルでも、システムでも、3種の神器でもなく「生活の知恵」にあふれた生き抜く力をもっておきたい。

歴史・文化・自然のことを知って、より活かせる「おばあちゃん」でありたい。ここまでくると、論理的にというより、感情かもねえ。

文化の創造は「生活文化圏への介入」が鍵

まさに今日、むちゃくちゃ独創的な作品を作る同年代の陶芸作家さんに出会った。馬とかキリンとかを、結構大きくつくってる。作品の大きさや色づけも、そのすべてが他の作家とは異形。よしあしではなく、違いを感じる。

彼の作品性については「実用性」は感じられなかった。そのことについて彼に問うた。

izumikun

実用性や使いやすさを考えると、600円のコーヒーよりも100円のコーヒーでよくなる。これに似たことが陶芸の世界にも在ると思ってるんですけれど、あなたの作品の位置というのを、どのように認識していますか?

すると

作家さん

ぼくはそもそも陶芸であることに、こだわりはありません。ただ、ぼくはこういうものを作りたい。それだけです。

では「例えば、取材とか問い合わせはどんな方からが多いですか?」と少し角度を変えて、同じ質問をすると

作家さん

色々ですが、アート系が多いですね。

これを聞いた時、ぼくは「保存された文化」というキーワードが、今ぼくが立っている状況に非常に似ていることに気づきました。ぼくが今感動したこの作品は、この閉塞的な空間で「作品として展示」されている。展示された「アート」をぼくは見ている。この距離は、保存された文化の展示を見ている時と、非常に似ているものがあった。

その時「では、生活の中に”有用性”を感じる方法はないか。」と考えた。

その一つが「道の中に突如としてアート(文化)が存在する日常を作ること」じゃないかと思った。例えば、お皿が購入される理由の一つは「使いやすそうだから」とか「いえに馴染みそうだと思ったから」というものがあると思う。これは、生活の中に「実用性」を求めているからです。

しかしアートでは、実用性を求めません。アートには「感性をゆさぶるかどうか」に価値をもつ性質があります。祭りにも似たものがあります。生活共同体の中にあるから、人と人とがつながる必要があった。そしてそのつながりによって、より大きな祭り(ハレ)を演出できたわけです。

ぼくはそれを『文化の創造は「生活文化圏への介入」が鍵』と表現しました。つまり、ぼくが作りたい文化を、いかに生活の中に取り込むか。ここが非常に重要。

お店の中庭でアート作品の展示会を開くのもいいな。味噌仕込みのワークショップは来年もやろう。大人が勉強をする機会をつくり、文化レベルを上げていこう。休める人を増やそう。

これを文化にするには、まず、生活圏に「そういう奴がいる」という状況を作ること。ぼくが「そういうやつ」になることで、そのきっかけを作れるなら、本望。いかに生活の中に介入していくか、ここが非常に重要だなあと思います。

日本は特に、空気を呼んで生きてる人が多いから、空気を破れる奴は揶揄されるし大変だろうけど、まあのんびり楽しんでやっていきます。

おわりに。

あー長かった。でも多分書き足りてない。あんまりうまくまとめられないけど、とにかく今思っていることを書いてみました!気づいたことがあったら、教えてください〜〜〜

ではまた!
今日も素敵な1日を🌿

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