暇の中で生まれた生存行動が文化であり、保存されるべきものが文化ではないのだ。と気づいたとても短い話。

家族が農園をしてるって友達からタンジェリンやらオレンジやら、たくさんもらった。何かお店で使えたらいいけど、ぼくにはまだその知恵がない。その少し前、えのきを買ってきた。そのさらに前、乾燥させたえのきで出汁をとっただんご汁を食べたんだけど、それがすっごく美味しかった。

izumikun

よし、自分でも干してみるか。

おばあちゃんちにあるような青い青い天日干しネットを手に入れた。輪切りにしたタンジェリンやらオレンジやらを2段に並べて、えのきは石付き(えのきの下の黒っぽいところ)を切り落として、指で少しほぐして並べた。1パックでちょうど1段分になった。

毎日ちょっとずつ変化を見ていく。表面が乾燥してきたかな。えのきはえのきは随分感想が進んだなあ。果実はまだ中の方に水分が光ってる。もう少しかな。そうして1週間が経った。

思いもよらず、えのきをたくさんもらった。

晩御飯に鍋をして1パックの半分は使ったけれど、あとは使いきれなさそうだから干してしまおうとなった。残った4.5パック分を干すことになった。

新たに干すためには、オレンジやらタンジェリンやらエノキを取り除く必要があった。一つずつ乾燥具合を確かめながら、ジッパーに入れていく。もともと白かったえのきは全体的に、茶色っぽくなった。どうしてだろう、と思った。答えはすぐには分からない。そして、タンジェリンやらオレンジの中にも、茶色っぽくなったものもあれば、まだまだ水分を含んで輝いてるものもあった。この時

izumikun

より乾燥させたものは、茶色っぽく、色濃くなるかもしれない。

そう思った。これを逆に考えてみると、色が濃くなってきているものを見つければ

izumikun

お、これはよく乾燥してるな。

と判断できるようになった。

乾燥していれば、より長期的な保存ができるようになる。というのは「知識」としては知っているけれど、まだぼくは実感を伴って知らないけど、どうやらそうらしいという「仮説」をもって経過を見ようと思う。

全部、取り終わったらいよいよ本題。エノキを大量に並べる時がきた。少しずつほぐしながら並べていく。あまりにエノキが多いもんだから「重ならないように並べよう」という気持ちが小さくなって、誰が見ても「雑だなあ。」という具合になった。その時こう思った。

izumikun

あ、これ裏返した方がいいだろうか。

理由は3つくらいあった。

  • 乾燥が遅そう。
  • 重なりが多いからカビそう。

2つだった。

ぼくはこれを思ったその、すぐ後に思い出した。

izumikun

そうか、これが「天地返し」ってやつか。

天地返しってのは、大豆や何かを乾燥させる時に「均一に乾燥されるように」する作業のこと。

で、この時にタイトルのことを思ったわけ。

ぼくたちは知識を蓄えれば、あらゆることができると思ってる節がある。そうでなければ「まず調べる」なんて行動はないはず。まずやってみる。このことが主張されていることそのものが、その証明だと思う。

ぼくはニュージーランドのオークランド博物館で感動した。オークランド市内の人は無料だし、国民はドネーション(寄付)で良い。つまり、払える人は払える分だけ払ってね。そういう姿勢であるということだ。つまり、知恵というものの集積にアクセスできるシステムがある。このことに本当に感動した。

日本でも博物館や文化館に行くのは、楽しい。武豊町の博物館には、たまり醤油をつくる現場を模型で表してくれてる。本当にすごい。学びがたくさんある。

でもぼくはずっと感じていたことがある。

izumikun

博物館に「展示されてるもの」って古いもの。

こういう感覚があった。

つまり、僕たちの生活とはどこか切り離されたように思えた。そして、それが実際ではないかと思ってる。これを加速させたのは(多分だけど)「遺産」という言葉が流通したところにあるんじゃないかと思ってる。

世界遺産、日本遺産。つまり、過去の人々が作り上げたもの、あるいは自然によって生まれた何かに対してステッカーを貼って「保存しよう。」という取り組みのこと。ぼくたちの社会や世界というのは、明らかに「変化」をともなっているものですよね。その世界観の中で「保存されていくもの」というのは、単純に考えれば、明らかにおかしいわけです。

でも、これは「観光」という視点で広まった。誰もが「世界遺産」や「日本遺産」や文化というものに触れたくなった。つまりそれらは、多くの人にとって「生活のためのもの」というよりは「見るもの、触れるもの」となった。それは、もう少し抽象化すれば、日常のものではなく、非日常な特別なものと見るようになったということ。ではないかと思ってる。

でもぼくは、エノキを干すことで「これが天地返しか!」と気づいた。それは知識からの気づきではなく、実践からの気づきと知識が結びついたことによるものだ。かつての人々は、ぼくが実践から気づいたことと、この大地・自然・空との結びつきを連想し「これはまるで、天と地がひっくり返るようなことだ」と思ったから「天地返し」と名づけたんじゃないだろうか。

つまり「文化」やそれに似た性質や扱えいを受けているものは「保存されるために生まれたのではない」ということだ。生活実践の中に生まれた気づきと実践(生活経験)からくる知識の集積(知恵)を、ざっくりと「文化」と名づけたわけだ。

ぼくは、エノキを保存するために得たのでなく、食糧保存の必要にせまられて「保存」という実践を試みた。それは思いもよらず、文化的な営みだったことに気づいた。

一転、翻って考えてみると、

izumikun

保存されたもの(知恵)を使うということは、文化の継承。であり、保存されたもの(知恵)を使わないということは、文化の消滅。となる。

しかし、文化とはもともと「生活必要に迫られて生まれたもの」であるなら、知恵の集積が「現時点での時代性」にマッチしないことは文化の消滅を意味し、それはそのまま今の時代にあう「文化の誕生」を意味するのではないか。

そして、その「文化」を生み出せるのは、誰だ。

その答えはもう気づいているはずだ。スローフード運動の事例はたぶん、そのヒントになるだろうと思ってます。

そんなわけで、おしまい。

今日も素敵な1日を🌿