5合の籾が、語るもの。

今日は、お店をお休みして、自然農の田んぼで脱穀のお手伝いをさせてもらっておりました。数ヶ月前に自分たちで撒いた種籾が、月日を経て実り、収穫し、脱穀。撒いたのは、たったの5合。それがなんと120キロほどの新米となった。ここからさらに籾とり?とか精米やなんかをしていくと、多少少なくはなるけれど、、、。それでも、たった5合の種籾から生まれたのだと思うと、その圧倒的な奇跡に驚きを隠せない。仮に100キロの白米ができたとして、

だいたい1合が150gで計算すると、

100キロ=1000g(1kg)×100=100000g
100000g÷150g=約667合分

5合 → 667合 になったから
667÷5=133.4倍

たった5合の種籾が、1年とかからず133.4倍の新米となったのだ。こんな奇跡があるだろうか。出発点と終点だけを見てそう思うのではない。始まりから今日までの間に、気候的な困難はたくさんあったと思うし「かならず実る」なんていう保証もない。それでも、昨年の収量を超えるかたちで、脱穀の1日は終えることができたのだ。

自然の大きさと力強さ、その計り知れない営みに畏敬の念を送るとともに、ひとえに、この会に集まった人の手の数こそが、収穫というか、何よりの宝というものだ。仮に、5合から同じだけのお米ができたとしても、たくさんの人の手によって収穫されたお米には敵わないだろう。それは、優劣の話などではなく、何にも変えがたいものとなるだろうってこと。

1日1合のお米を食べてるとしたら、年間で365合。およそ約2倍のお米が収穫できたことになるけど、それを買って食べることもできる。でも、みんなでつくって食べることもできるならーどうせ人生暇つぶしなんだーそういう時間のつかい方は「贅沢」と言えやしないだろうか。

田んぼの中で、見知った人や知らない人と顔をつき合わせて、お話したり笑ったりしながら、お米ができる環境をひとつずつ整えていく。作業をともにしながら、出会ったり、再開したり、手を振ったり。いろんなことが起こる。ダンスの発表をしたり、昭和歌謡をみんなで歌ったりもする。寝転んで空をながめててもいいし、手を動かしてもいいし、好きにしたらいい。そしてそれを誰も責めたりしない。ただ、そうであるということを認め合いながら、そこに共生する。いちいち、全会一致の「いいね」も必要ない。

たった5合のもみから生まれたその空間の中では、僕たちはひとつになれるし、至って平和で穏やかで、ただただ存在しあえた。

今年は、この自然農田んぼに参加すると決めてたから、種まきから参加させてもらってた。お店があっても休むと決めてた。生活の外側にはいつも、全然違う世界が続いてる。しかも音も立てずに、そこにある。何の干渉もしあうことなく、この世界に存在し合う。一歩、日常をでて見ると、そういうことに気づく。

ぼくはそういう人でありたいのかもしれないと、思った。

いろんなことに気づくところがあると思う。この世界の仕組みを言語化して、気づいたことを整理して伝えることができる。それゆえに、そこを目指してるんだったら今の活動は意味ないよねってこととかも見つけたりもすることが、よくある。だから実際に言葉にして伝えてみたりもする。でもそうすると、相手にとって気づいてないことの話だから、受け入れられないことも、よくある。でも、今日の感覚でもって、その終止符を打つことにした。

ぼくは、なんの音も立てず、そこにある。干渉し合うこともなく、この世界に存在し合う。そういうところにちゃんと立ち返ることにしたのだ。気づいたからしなくちゃいけないのなら、ぼくには自分の決めた人生をやり切れる時間など残されちゃいないことになる。気づくことが、周囲の同世代に比して、多すぎると思ってるから。それを全部やり切るなんて無理。

でもそもそも、そんなことを語り合う必要なんてなかったのかもしれない。語らないようにするために「やりたいことがない」と予防線を張ってたけど、そんなことすら必要がなかった。

本心で足が向かないものには参加しない。足や手が動くものを、信じる。それだけでよかった。もみやワラを飛ばす「とうみ」を回すのは心地よかった。疲れないやり方まで習得して、最後の最後までやり抜いた。それだけでよかったのだ。

5合の籾が、語るもの。
izumikunが、語るもの。
それはきっと、本当は、同じ。

そういうことに気づいたのでした。

それでは今日も素敵な1日を🌿