隔たりと偏見と差別

ぼくの中には、他者との隔たりも、ある特定の何かへの偏見も、差別意識もあると思う。それがないという人を、ぼくは信じることはできないんじゃないかって思うくらい。それでいて、その真ん中でいたいという希望ももって生きている。この時の希望は「明るい未来」的な表現ではなくて、進学の時の「第一希望」という”私はそういう未来を望んでいます”という表明である。

日頃よく聞くようになった「私は私、あなたはあなた」という考え方、あるいはアドラー心理学に解説される「課題の分離」(ざっくりいうと、あなたが抱えている問題は私の問題ではないし、私の問題はあなたの問題ではないよっていう話)を世界にそのまま当てはめてみると、端的に言えば、

“ぼく”と”あなた”の間には「隔たり」があるよ。

ってことだと思う。

この時の隔たりというのは「違い」とも言い換えることができるかもしれない。

例えばその”違い”というのを具体的に示してみれば、

小学校5年生の時にサッカー部にいたのか、漫画クラブにいたのか。その程度の話。サッカー部にいたあいつと、漫画クラブにいた自分が「違う」というのは、そんなに難しい話じゃない。所属グループが違うだけでなく、そこに所属する人が違うわけだから、その人とのコミュニケーションや得られる情報や体験する刺激も、違ってくるはずだ。

そういう体験の集積=経験というものが、人の「偏見」をつくり、そこに大きく影響を与えていると思っている。

ぼくは言葉をシンプルに捉えてる。いいよ。と言われたら「いいよ。」でしかない。今はやる気分じゃないんだよね。といえば、そうでしかない。あなたが嫌だから。とかそういう捉えられ方をすることもしばしばあるけど、それはその人の想像世界の話であって、現実じゃない。ぼくは言葉をもっとシンプルに捉えて、使ってる。世の中に生きてる人は、本当に変な言葉遣いをしている人が多すぎるなと、苦しくなることもしばしば。

偏見というのは、偏った見方のこと。それは、経験によって形成されていくんだと思うんです。例えば、紙のファイルで書類を整理していた世代の仕事の仕方を見て、生まれた時からデジタルネイチャーの人が思うのは「ネットで管理すれば紙も無駄にならんし、管理も楽なのに。なんであんなに非効率なことやってんの。古すぎ。」ってこと、かもしれない。

この見方は、ずいぶんインターネットの可能性やその恩恵に偏った見方だなと思う。紙のよさがあるから、電子書籍が出て来た今も、紙の本があるわけだ。だから、紙の良さを感じて使い続けている人がいるなら「今ってネット時代だけど、なんでこの会社は紙で管理してるんだろう。」という疑問が生まれれば、それは偏見の偏り度合い(その角度)は小さいんだろうなと思う。とはいえ、

偏見は、小さいながらも「ある」のである。

そうした偏見をもちながらも、倫理的な側面から「うまくやろう」という心理がはたらく。つまり、喧嘩はなるべくしたくないし、争いたくない。そうなると、相手がどんな人なのかを理解しようとしないと、いけない。つまり、私とは違うあなたとの間にある”隔たり”とは何か。私とあなたを別(わ)けるものは何か。横軸的に言えば「隔たり」(壁的なイメージ)であり、縦軸的にいえば「差」(階層的なイメージ)が、具体的にはどんなものなのかを理解しようとする。

そうやって自分と他者との違いを探していくというのは、より自分と他者との”隔たり”を大きくしたり、自分の中にある”偏見”をより鮮明にさせていくことになるんじゃないかと思う。

つまりそれは「差をみつけて、別ける」という差別意識の醸成に大きく役立つことになるという「私のありのままに生きればいいのよ」という理念が各個人に浸透していくにつれて、他者意識がそれぞれに醸成されることで、そこには隔たりが生まれ、偏見という経験の檻にの中で、差別的意識を得ることになる。

これは、誰でもきていい場所は作れないという命題に似ている。誰でもきていい場所には「誰でもは来ないでほしい」という人を受け入れられるかー。自分のことを知って、自分が自分たる確固たるものを見つけるたびに、それは他人との差分を見つけることになり、自分を他者とスクリーニングして別(わ)けることになるのなら、差別的な偏見は、あってしかりなのではないか。

これは結構、実感としてあるんだけど、

自分の心地よいポイントを知れば知るほど、そうでない反応を見せる人には敵対的な態度を見せてしまう。あるいは、その対象について「知ろう」という気概すら起こらなくなる。

ぼくたちは一体、どうしようというのだろう。

ともかく、ぼくは言葉通り「隔たりと偏見と差別」をこの世界に対してもっている。

でもそれは「良し悪し」で判断されていいものではない。誰しもが持っている要素なのである。差別がいけないのではなく、差別によって傷ついている人がいることによって、はじめて「問題となる」のである。そういうところをちゃんと切り分けて考えていかなくちゃいけない。