へたどくしょ感想文「15歳のコーヒー屋さん 発達障害のぼくができることから ぼくにしかできないこと」貸出人 @bonsakubon

昨日、MEM.で「大人の勉強夜会」を開催。月曜日の夜は勉強夜会。ぼくは幼少期の持病のおかげで無精子症ってやつでお子さんを授かれないからね(←色んな方法があるのは知ってるから、その辺り突っ込まないでね。知ってるからね。)、大人の背中みたいなことってあんまり関心がなかったんですよ。でもね、アパレルショップで服を散らかして帰る大人が子どもを叱っているのを見てね、こりゃ参ったと思ったわけです。そしたら、あれよあれよと、兄夫妻が子どもを授かりましてね、その時こう思ったわけです。

甥っ子が大人になった時に、かっこいいおじさんでありたいぞ。大人の背中、ちゃんと見せてやりたいぞって(そりゃ立派だ!俺は全然ダメだーって酒を飲んで笑ってる場合じゃないんですよ、ほんと)。

ぼくはね、というか、ぼくの世代はね時代が早いんですよ。成熟した社会を生きていると、ものもことも足りているのに、足りないところを突っついて新しいものやことを生み出すもんだから、社会全体に人が追いついていけない。ぼくも追いつけないまま今ここにいるんだけど、とかく、見習う大人の背中が本当にないんです。生き方とか、生き様とか、そういうことを学べる人はたくさんいる。本当に皆さんのこと、尊敬してる。でも、新しいものがどんどん生まれていく時代では、先人など誰もいない。

だからこそね、ずっとやってきたよって言いたいんですよ。おじさんって憧れるって思ってもらいたい。親は、近すぎる。おじいちゃんやおばあちゃんは、おせっかいすぎる。ちょうどいい距離のおじさん像って、ぼくにとってはすごく素敵なんだよね。だからね、ちゃんと学んでる大人の背中を見せたいと思った。大人の勉強夜会は、そのための、ぼくが勉強を習慣化させるための仕組み。どうせやるなら誰かとやりたいし、どうせやるなら沢山の大人の背中をつくりたい。どうせなら、大きな背中が沢山ある社会で、甥っ子を迎えてやりたい。彼が15歳になる15年後。この世界がどうなっているのかは、分からない。AIや検索機能が発達した現代で、本当に、勉強することが有意義なのかもわからない。

それでも、15年後の未来とできるだけ似たような位置で、彼とハグをしたい。多くの大人と関わるが、話題になるのは彼らの栄光や、彼らにとってのぼくらの数十年後の話。本当に知りたいのは、今をどう生き抜くか。この世界について知りたいのだ。彼らが生きていくであろう未来を作るのは、ぼくらだ。であるならば、過去の栄光でも未来の与太話でもなく、彼らの今を共に歩める背中を、ぼくは今から作っていかなくちゃならない。

と、熱烈に話をしていると、ブログ初心者のように「長くなっちゃった」ので、話はこの辺で終わり。

そんな勉強夜会に参加してくれた、 @bonsakubon ぼんちゃんから本を貸してもらって読了したので、読書感想文を書きます◎

読書感想文「15歳のコーヒー屋さん 発達障害のぼくができることから ぼくにしかできないこと」貸出人 @bonsakubon

発達障害と診断された岩野響が「学校という環境の性質」と「自身がもつ特性の凸凹」との間で起こるさまざまな困難の波を、デザイナーである父と服飾をしている母、その友人たちや発達障害に理解のあるドクターらの助けを借りながら乗り越え、15歳にしてコーヒー焙煎士となる、あるひとつのノンフィクションなお話。

ぼくがもともと福祉の人間(社会福祉士国家資格もってます)であることや、コーヒー焙煎をしていることから、この本を貸してくれたのだろうか。読んでいくと、響さんもスパイスカレーに夢中だったことも、共通してる。ぼくの場合、発達障害ではないけれど、持病によって低身長や体力低下といった目に見える症状があって、それによって難しさを感じた日々を送っていたことも似てるなと思った。周りができて、自分にはできない。そういうものがぼくにも多かった。

普通。ちゃんと勉強して、経験を積んで、仕事をする。でも響さんは違う。はじめにとことんのめり込んだ。彼は「好きなもの」と表現していたけれど、ぼくにとっては「自分の特性に”合う”もの」と出会うことで、熱中した。それが、気づけば、仕事になった。ぼくの場合は、熱中するものもなかったし、好きと呼べるものもなかった。ただ、焙煎をして、コーヒーを入れることは自分に合ってるなと思える。とはいえ、こんなことを言っちゃ珈琲やってる人としてどうなんだと言われそうだけど「テストすること」は苦手なのだ。

色んなパターンを設定して、試していくことがとことん苦手なのだ。だから、初めに記録していたものも、今は記録していない。ただ、感覚だけを頼りに急須珈琲に合う焙煎を目指して取り組んでいる。豆は単一、しかも一種類。ミャンマー産ジーニアス。オーガニックのものしか扱わない。というのは、実を言うと、パターンテストが苦手で、色んな豆に合った焙煎をすることの荒波を乗り越えきれていないからなのだ。

大学時代のぼくのテーマは「できることを、ふやす」だった。ここも似てる。自分で農業を始めたり、地域の人とイベントを立ち上げたりもした。色んな人がいるってことも、そうやって学校の外に出て行って、人と出会うたびに感じた。あの新鮮な気持ち。この本から、その気持ちや感覚を思い出せた。これは、ありがたいよ。本当に、ありがたい。

27歳。そういうと、まだまだ若いね。と言われることの方がほとんどの暮らしだけれど、そう言う言葉を聞くたびに、ケツを叩かれてるような気にもなる。響さんのような存在があることを知っているから。若いから未来があると言うのは、未来に夢を見られなくなった大人の言い分なんじゃないかと思う。若いとか、年取ってるとか関係ない。学生時代に飛び乗ったピースボートには30歳すぎて退職して船乗ってる人がゴロゴロいた。当時のぼくより若い人も何人もいて、アクティブに活動してた。胸を張って夢を語ってた。それと同じくらい、60代の人、それ以上の人が夢を語ってた。船に乗る前に沖縄に行った時「私、学生なの。」と、ふなっしーが大好きなクニシロさんことクニッシーさんは定年になってから文学を学びたいと言って大学生になった。自分の人生を決めるのに、年齢など関係がないと知った。

歳をとった人に未来がないのは、そう思う人がいるからだ。そう思わない人には、未来は広く広くそこにある。15歳だから学校に行かなくちゃいけない。そう思っている人の未来はやっぱり、学校の中にしかない。中学生たちは、高校生である自分の未来をイメージしているから、やっぱり高校生になる。高校生たちは、大学生である自分の未来をイメージしているから、やっぱり大学生になる。しかも、子供の未来を応援したいと思う親のもとでは、それは「ちゃんと」現実になる。でも、よくよく考えてみると、親が「大学行くなら自分でお金工面して」と言われた人の中には、それでも大学に行くと決めた人もいるし、大学に行かずに高卒で働き始めた人もいる。それでも、きっとみんなどこかで生きてる。それはなぜか。

自分でお金を工面しても大学に行く未来をイメージした人がいて、高卒で自分で生きていくんだとイメージした人がいる。その違いな、だけ。自分が今いる場所から、これから先の未来を、どうイメージするか。未来はたぶんそれだけで決まっているとも言えるような気がする。60歳の人が、今から学んだってその知識をあとどれだけ使えるんだろう。そう思ってやめる選択をしたら、その未来しかやってこない。それでもいいから、学びたい。そう思えた人から、未来は変わっていく。

彼の中に、年齢という概念は存在してない。年齢が若いからできないという概念は存在してない。ただ、今の自分にとって、できること。できないことがある。それだけ。そして、その中のできることに突き抜けていく。彼の幸運は、それを助けてくれる親の存在があったこと。そして、インターネットで販売ができるなどの時代も、その助けとなった。

でもこれは、彼だけの幸運ではない。

SNSや物販サイトの設立、物流インフラの発展は、ぼくたち誰もが恩恵を受けることができる。今回、親が果たした役割は、友達やつながり、特定のジャンルのコミュニティ、行政が用意してる補助金などを活用すれば、補うこともできる。そういう補い方が、この世界には準備されてる。

世界は思っているよりも、僕たちを拒絶してないんだよ。ちゃんと、受け入れてくれるスポットがある。そこを探す。社会には、社会に合うかたちを求めてる。彼の生き方は、社会が用意した「学校」というシステムには合わなかったかもしれない。でも、社会を構成する社会人に刺さる「新聞」や「本」や「テレビ」といったシステムでは、認められるものだった。商いというものには、年齢は関係なかった。

この本は「学校に合わなくても世界は広いよ。」ってことを教えてくれてるけれど、もう少し分解すると「学校以外に合うところが、きっと君の中にあるよ。そこと社会に合うポイントを見つけていこうね。」っていうことなんだと思う。この本の中では、それは焙煎士として稼ぐということだったし、商いを始めるということだった。また別の方法があるかもしれない。ビットコインで億を稼いじゃったとかもあるし、会社を立ち上げたって話も聞く。つまるところ「生活費」というところに帰着する。ここがちゃんと賄えるなら、なんでもいいのかも。

この本で印象に残ったのは、最後の解説で「発達凸凹」という概念が紹介されているところ。ぼくにはずっとこの概念が胸の内にある。ぼくだって凸凹がある。あなたにもきっとある。それが「違い」ってもんだ。それが「人となり」ってもんだ。

自分の凸凹と、社会が求める凸凹。その基本的なところには「生活費を賄えるか」という川が流れてる。準備されたライフステージから外れても、そこさえカバーできれば問題ない。でも、人間には社会性への欲求も用意されてる。だからね、社会が求める凸凹と噛み合うポイントを探したくなるはず。そのためにまずは、自分の凸凹を見つけること。

響さんのように、自分の凸凹に向き合うこと。それは障害という診断に関係なく。ぼくだってそう。ずっと向き合ってきた。だから、ちゃんと自分の凸凹を認知してる。その凸凹を、多くの人は「武器」と表現するけど、そうじゃない。かみ合えば、それでいい。自分に合う社会の凸凹はどこにあるだろう。その探求の連続。

そういう今を、生きていく。

@bonsakubon ちゃん!貸してくれてありがとう!
近々、返しますね〜〜!

それでは今日も、素敵な1日を🌿