本音と、建前って本当にあるんだ。

どうも、izumikunです。

ずいぶんと前の話だけど、こんなことを思っていました。「本音と建前っていうけど、建前って嘘じゃん。嘘つく必要なくない?はじめから本音で話せば良くない?」そんなことを思っていました。これを僕は純粋とは言われないのだけれど、ただただ、そういう現実をその時のizumikunは見ていたのだと思います。

そして、そんなことをすっかり忘れて過ごしていたのですが、ちょうど今日。

izumikun

本音と建前って、本当にあるんだ。

って思いました。

それで気づいたんだけど、本音ってただただ本音だし、建前ってただただ建前なんです。嘘じゃなくて、建前って、ただただ建前なんですよ。

そういうことを知りました。

これはね「大人になったね」とかそういうことじゃないんで、そういうセリフだけはどうか言わないでいただきたい。これは、生涯に起こりうるであろう気づきのほんの一瞬の出来事にすぎません。子供とか、大人とか、そんなことを分けて考えないっていう世界の捉え方をしてみるのも、izumikun的にはおすすめです。

でね、建前って「こう伝えたら伝わりやすいだろうな」とか「この言葉を使ったほうが理解してもらえるだろうな」っていう思考の先に、自分が本当に思っていること(本音)を表すにはちょっと不十分な言葉を選んで使うことなんじゃないかって思いました。これって、嘘をつくとはちょっと違う。ものごとは紙一重ですから、嘘と捉えられることもあるかもしれません。あるいは、建前は、嘘の種類のうちのひとつとも言えるかな。

例えば、izumikunを例にするとね。

izumikunは今、観光のお仕事でガイドをすることがあります。それでね、そうすると「どうしてガイドのお仕事をしようと思ったんですか?」っていう質問って必ずやってくるんです。これは、珈琲屋をしている時も、web制作をしている時も、どんなことをしていてもです。そんな時に「たまたまです。」とか「なんとなくです」って言っても、聞いた側はどうにも納得しない。人はなにか「大義名分」が欲しいんです。誰かのためにやっているという「力の向き」を知りたくてしょうがないんです。

そんな時、

「この街の〇〇なところがすごく好きで、自分もこの街のことをお伝えしたい。そういうことでお仕事になればいいなと思いました。だから私は、このまちでガイドをしています。」

「この地域に前からあった喫茶店がなくなって地元の方が集まれる場所がなくなっちゃったんですよ。それで、何か支えになったらいいと思って。それで自分ならできるかなって思ったコーヒーを入れ始めました。」

こんなふうに答えたりすることもあります。

これ、こんなふうに書いちゃっていいのかな。まあ、いいか。

でもこれは「本音」ではなく「建前」です。

本音は

izumikun

たまたま。

です。

でもこれでは相手にスムーズに伝わらないから、人はいろんな「大義名分」を考えて、伝えます。これが建前ってやつです。極端な具体例を出しちゃうと、それは嘘かもしれないけれど、道理があって本当のことであれば、それは建前というコミュニケーションの手段として機能する。

izumikunはそういうことをやっとはじめて実感しました。

そして今思うのは、人はこの建前によって生み出された「大義名分」によって、潰されてしまう可能性を持つんだな、と。自分の行動はもともと偶然性でしか説明が出来ないのに、無理くり理由をひっつけて言葉にしちゃうから、なかなか辞めにくい。ロジック的にも、人目的にも。

izumikunは今、本音と建前という2つの感覚を手に入れたわけだけど、大義名分はあくまで外向きの「建前」であることの認識をしっかりともっていたいと思います。本音はいつも「たまたま、偶然だよ」ってこと。だって、それが真実ですもの。

物事が起こる時、それはhapというひとつの語源から全てが説明できます。

happy 幸せ(は)
happen 起こる
haply 偶然に

全ての語源はhap。

根拠なんてないんです。

ある意味、本音っていうのは説明できないもので、見えているもののほとんどは「建前」なんだな、自分たちにわかりやすく伝えてくれているんだなってことを感じていられたら、みんな優しくなれるのかなと思います。本音はいつも、その後ろにあって、説明できないものだったりするんですね。

ま、そういうことです。

なんか描こうとしてたことと違ったけど、いっか。
それでは。