報酬を、考える。

幸せを感じない人生を生き続けることはできるだろうか。罰しかない日々を楽しむことができるだろうか。喜びのない関係を維持することができるだろうか。

ぼくたちはどこかで、報酬を求める。

報酬とは、人によって、変わる。報酬とは。お金かもしれない、幸福感かもしれない、やりがいかもしれない、この人と繋がれるなら!というつながりかもしれない。あるいはもっと違う何かかもしれない。それは、人によって変わる。

そして、状況によっても変わる。手元にも通帳にも1円しかない人にとって、今日の報酬が、やりがいだけなら、憤慨するかもしれない。しかして、手元にも通帳にも1円しかない人でも、明日になれば1億円のお金が入ってくると確約されていれば、今日の報酬がやりがいだけであっても報酬以上の何かを得られるかもしれない。

報酬とは。人によって、状況によって変わる。1円資産のその人が、やりがいだけの報酬に歓喜して、健やかなる眠りと超え、明日を生きるかもしれない。これは、答えをはかりかねることなのだ。どれだけ思考実験をしてみても、あくまで、思考実験にすぎない。実際のところは、人と、状況によって、変わる。

そうであるならば、そこに「度合い」とか「適正」といったことを指標に置く必要が出てくるのではないかと思う。つまり「どの程度の報酬」が「その人や、その人の状況」に「適しているか」といったことについて、よく考えなくてはならない。この社会に蔓延っている多くの愚痴や批判は、このことを言ってるんじゃないかと、個人的には思うわけだ。

話を聞いている上っ面では「あいつが悪い」「こいつが悪い」と、そんなふうに聞こえることも、よくよく話を聞いてみると「あいつの性格や、あいつの状況」と「こいつの性格や、こいつの状況」の間にある「お互いのニーズ」が「マッチしていない」ということになるんじゃないだろうか。

喧嘩両成敗。どちらも悪いが、どちらも良い。そうではなく、どちらに対しても良し悪しなどないのだ。ただ、マッチしていないということを認識できれば、それで十分なのである。合っていないコトやヒトと、合わせられる工夫をするもよし。合っていないコトやヒトから離れて、合っていそうなコトやヒトを探してみるもよし。合っていると思っているコトやヒトと長く付き合うと、合わないコトや合わないトコが出てくることがある。

でもそれは。

全部が合わないわけじゃない。合う部分もあれば、合わない部分もあるってことだ。よく、人のことを「社会の歯車」と表現することがある。仮にそれが本当なのだとしたら、歯車ってのは、凸凹(デコボコ)の凸と凹がピッタリと合うタイミングでしか、歯車を回すことは難しいように、人もまた同じなのだ。凸凹の凸と凸でかみ合っていては、回らなくて当然なのだ。凹と凹でも、同じ。S極とS極が合えないように。

でも、

凸と凹が出会えば。
SとNが出会えば。
互いに寄り添うことができる。

数奇なことに、その違いこそが「合う」ということなのだ。

今の「自分にとっての報酬」とは何か。ある「チームにとっての報酬」とは何か。そのチームを構成する「メンバーにとっての報酬」とは何か。ぼくたちは、いつも違う場所にいて、違うところにいるコトやヒトをみている。違うからこそ、擦れる。擦れてゆくたび、すれ違う。でもその違いがあるからこそ、それを凸凹と理解するからこそ、きっと合うところがあるはずだ。

そういうところを探していこう。

ぼくはこれを、2016年にヒラリから教わったー、発達凸凹。
この応用。

もう1つだけ事例を置いておくと、

ある物事について「できる人」が「できない人」をみると、もどかしい気持ちになる。これは、ある物事を達成させるためのスピード感に違いがあるからなんじゃないかと思う。スピード感が同じであれば、もどかしさなど感じない。むしろ何も感じないことさえある。自分のスピード感を相手にも適用したとき、そのもどかしさは生まれ、その蓄積は、怒りや嫌悪をも産む可能性をもつ。しかし、このもどかしさが「スピード感の違い」つまるところ

ぼくが求めているのは「スピード感」であり、ぼくは「早い」が彼は「遅い」のだということ。ここが合っていないから、もどかしいんだと気づくこと。だとすれば、そもそも、自分が手を緩めてみたら、ちょうど良くなるんじゃないか。よし、彼とランチでも行って、どうやって作業してるか聞いてみよう。何か伝えられることがあるかもしれないな。ランチをしている時間があれば作業ができるかもしれないが、ランチをして、自分の作業時間を減らすことによって、全体の効率が上がることだってある。

ランチが違ったと思えば、一緒に作業してみるのもいいし、むしろ業務量を減らしてみるのもいい。何がその人にマッチしているのか。そこが大事だ。

仕事にマッチするように生きるのではなく、生きる人にマッチする仕事があるはずである。そして、その仕事に見合う報酬がある。報酬が見合わないのであれば、報酬に見合うような仕事があるか、もしくは、働き方があるはずだ。報酬が低い、高い。仕事がブラックだ、ホワイトだ。そんな話は、たぶん空っぽだ。

自分に、合ってるか。
合うために、違いを認める。
凸凹は誰しもに、どんな出来事にもあるのだ。

そういうことを知って生きるのと、知らずに生きるのでは、ずいぶんと違いがある。どちらが自分の人生に合うかは、これを読んでいる人が決めたらいい。

ぼくはこれを知ってよかったと心から思う。自分の人生には、適当なことだと思う。

今日は、そういう話でした。では。

今日も素敵な1日を🌿