評判、言い得て妙。

今の言葉で言うと、レビューとか口コミとか言うのだろうか。とかなんとか、とぼけてはみるものの、生きてる時間がながけりゃあ、知ったかぶりも難しくなるし、知らないふりも難しくなる。それなりに生きてりゃあ、それなりに知恵もついてくるってもんです。

多くの人が思う「この年代の人はこういうもんだろう」とか「あの人ってこういう人だ」とかいう、いたって真面目な“勘違い”は、その難しさに拍車をかける。今の言葉でいうと見えなくなるけれど、いわゆる評判というやつは、言い得て妙。

人を評して判をおす。

最初はそれだけのことだったかもしれない。人と出会い「ああ、こんな人だったなあ」と思いふける。その特徴をひとことで表すと「◎◎な人」だなんて評する。それを聞いた「◎◎な人」をイメージした別の人が「◎◎な人なんだから、こうよね。」と、勘違いする。ここでいう勘違いというのは、見当違いともいいなおせる。あくまで推測や傾向であるけれど、判をみただけで、評された価値を求めるのは、計算としては危うい気がする。

コミュニティとか関係性のなかに生きていると、そこから逃れることは、非常に難しい。

昨日、友達のイベントダイアローグに参加して「障害とは」ということを話し合った。その時にも似たようなことが話された。近ごろは「あなたは〇〇障害です。」と診断されることに安心する人も多いそうだ。そして、障害があるから、こんな自分も許せる、そう思うという。でも本当は「逆じゃないだろうか」と思った。

自分は〇〇障害だから、こう。なのではなく、自分はこうだから、障害を感じることがある。

人は、よくもわるくも、判が大好きなんだろうな。判があると、評も価値もわかるから。

でもそりゃあそうか。物の価値を、通貨(数字)という共通単位で「判」をおしたことで、評も価値も規定できているわけだもの。

資格がほしいのも、褒められたいのもそう。承認欲求ってのもあることに加えて「判」の欲求が、人に人を評させているんだなあと。

誰かと関わりはじめると「あの人は、ほかのあの人たちからは、あんまり評判よくないわよ」とかなんとか、耳にすることがある。

まあ、相手の特性がわかれば、対応ができたり問題を未然に回避できることもあるから、一概によくないこととは言えないけれど、でも「それは、その人たちが、その人と“合わなかっただけ”なんじゃないか」とも思うようにしてる。

だって、まだ関わったことないんだから。歳をとると、嘘がつけなくなる。歳をとると、それっぽく知らないふりはできないし、それっぽく知ってるふりもできなくなる。そういうどん詰まり感が、冒険心を殺す。そして、人の冒険心や探究心までも殺しにかかってくる。

そういうことが、たびたびある。その度に思う。それは「誰の話してますか?」と。

余計なことはいわんでいい。余計なことは聞かんでいい。そういうことに使わなくなった、余分な時間で、楽しいことを考える。評判なんて気にせずに。

そういう感じで、最近は楽しいね。

いつもありがとね、今日も素敵ないちにちを🌿