共有地においていく共有知ー。理解し合うための共通言語をもつために。

ぼくとあなたの間には、1台の机がある。この上には、まっさらな紙が用意されている。それ(つまり、まっさらな紙の面積)は、どこまでも小さくすることもできるし、どこまでも大きくすることもできる。極小でもあり、無限とも言える。そのサイジングを決めるのは、ぼくとあなたの間で交わされる言語が「共通のものである」ということが、とても大事になってくる。まずは、この”まっさらな紙”というのを「共有地」と定義しておこう。

この共有地では、ぼくとあなたとの間で交わされる「共通の言語」が次々と、おかれていく。それは例えるなら、かるたのようなイメージだし、UNOのようなイメージだし、名刺交換のようなイメージだし、ブレインストーミングのようなイメージでもあるし、ひとつの木からのびる根っこのようなものでもある。そして、この”ぼくとあなたの間で交わされ、置かれていく共通言語”のことを、ぼくは「共有知」と呼んでいます。

では、共通言語とは、何か。共通言語というのは、ぼくとあなたの間で交わされる言語が同じであるかーということが問題なのです。それは、同じ日本語であれば良いというわけではなく、英語同士だから良いというわけではありません。共通言語とは、ある一定のコミュニティにおける「最低限のルールにのっとった言語のこと」であり、それを互いに理解しあえ、使いこなせているもののことです。

例えば「山」という言葉についての共通言語とは何か。ぼくにとっての「山」は辛く・苦しい道をゆくものといった認識ですが、あなたにとっての「山」はリズミカルに楽しめるアクティビティといった認識だったりということが、あります。この時、

ぼくとあなたの間にある「共有地」には以下の2つが置いてあることになります。

  • ぼくにとっての「山」は辛く・苦しい道をゆくものといった認識
  • あなたにとっての「山」はリズミカルに楽しめるアクティビティといった認識

この2つが「共有知」です。この共有知を理解しあった上で交わされる言語こそ「共通言語」と呼んでいるものです。ぼくたちは、この共通言語をひとつずつ探さなければなりません。

共通言語とは、同じ母国語や話し言葉や書き言葉を使っているということでは、説明できないのです。お分かりの通り、先ほど共有地におかれた”2つの認識”は、どちらも日本語であり、同じ書き言葉です。それでも「山」という同じもので表現される。もし仮に、お互いのこの認識を理解し合うことなく「山」という言葉だけでコミュニケーションが行われたらどうでしょう。あまり話が噛み合わないだろうし、互いを怪訝な表情で眺める時間が流れるだけです。

こういうコミュニケーションを、表面的なコミュニケーションと言ったりするのだろうと思います。本当のことは、その裏で、表面に出てきた言葉をどのように認識しているかーで決まります。

別のことで考えてみます。

例えば「今までやったことのない、若者向けのPRをする」というのがテーマの会議があったとします。まずは「どんなことでもいいので、とりあえず意見を出していきましょう。と言って、それから2つ3つの意見が出てきますよね。すると次第に、意見に対する意見が出てくるようになったりします。

若者向けだったらTickTokをやるといいんじゃない?
いや、それをやるなら、YouTubeがいいと思うな。
そうは言っても動画編集なんて誰にもできないよ。
そんなことで収益が出るとは思わないな、別の案を出そうよ。

こんな感じで。

でも、これではみんな目的を失っています。そして、物事が決定されていくプロセスをまるっきり飛ばしてしまっています。大事なことは、

ぼくとあなたの間にある「共有地」に「共有知」をおいていくことで「共通言語」をつくることです。

決定は、もっとあと。決定の判断基準を決めた後に、ようやく決定へと進めることができるのです。先程の事例から考えると、

若者向けだったらTickTokをやるといいんじゃない?
 →TickTokこそ!=若者という前提?なのかな。

いや、それをやるなら、YouTubeがいいと思うな。
 →TickTokよりYouTubeというのは「ひとつしかできない」っていう前提を感じます。

そうは言っても動画編集なんて誰にもできないよ。
 →動画編集は難しいから私にはできない「前提」を感じる。

そんなことで収益が出るとは思わないな、別の案を出そうよ。
 →目的は新しい企画であり、収益性が大事だとはみてないのに。

つまり、どこかで僕達は「思い込み」をしていて、それにもとづいて、言葉を扱ってる。だから、実のところ、相手が何を思っているのかなんていうのは、お互いに分かったもんじゃないというのが、ぼくの気持ち。でも、そこに時間をかけて、認識を合わせていくというのが、大事なんです。結論を急ぐことなく、ただ、置いていく。

TickTok

  • 若者向けって認識
  • 実は調査によると全世代で見られてたりもするらしい
  • ついつい見ちゃうっていう親戚がいるよ
  • 若者向けだと知識系とか写真系が流行らしい

みたいにざっくばらんに置き終わったな。と思ったところで、

ところで、さっきのアレについて、この部分ではどう考えてたりする?

ってな感じで、ひとつずつ根を伸ばしていく。そうやって一つずつ理解しあっていく。そうすることで知らないもの同士であっても「共通言語」が作ることができる。今回であればTickTokに対する認識を共有知として、みんなで保存し合うことができる。

相手の言動ひとつひとつに全て反応していたら体がもたないでしょ?だから、一つずつ丁寧に共通言語を作っていく。「そうか、そうか。君はそう考えているんだね。でもそれって、どうしてそう思ったんだい?」こういうやりとりができればいい。それだけで、ずいぶんコミュニケーションってのは、変わってくると思う。

それで、最後にすごく大事なことなんだけれど、共通言語は、そもそもみんなが知ってる言葉(山とか猫とか、そういうもの)でさえ、その認識が全然違ってたりする。だとすれば、年代や世代、あるいはコミュニティが違ったりすると、そこで使われている言葉そのものも違ったり、その認識が全然共有されていない場合が多い。むしろ、それを全て認識していこう、共有知としていこうとするのは、むしろ悟りの域に近いんじゃないかとさえ思う。

NFTって何?って投げかけがあったときに、いや、NFTはノンファンジブルトークンのことだよ。なんて言っても、全然わかんない。たぶん、王ファyいつあjbgjn、、、こうやって聞こえてると思う。でも「なんか、特定のデータに権利書をくっつけれるようになったらしいよ。」みたいな感じで共有地に置いてみると「データに権利書って、具体例ある?」って共有地に投げかけがある。そしたらそこからまた、どんどん根っこを広げられる。

でも、NFTってなんか怪しいよ。だから話しかけないで。どうせ怪しいやつでしょ?って、共有地にある「なんか、特定のデータに、、、、」っていう共有知を無視した動きをしちゃうと、もうさっぱりコミュニケーションはとれなくなる。

理解し合うためには、コミュニケーションが必要。そのコミュニケーションをいい感じにするには、ぼくとあなたの間に「共有地」があるんだということをちゃんと分かること。そしてそこに、共有知をおいていくこと。それについて尋ねて、詳しくみていくこと。そうすると、より大きなくくりで話をしたときにでも「ああ、あのことね」って、相手の意図が見えてくる。そうなれば「共通言語」を使って、コミュニケーションが取れるはず。

みんな余計な、人生の紆余曲折を意見にまぜて話してくる。だからこそ、よくわかんなくて当然。でも、知れば理解できることの方がきっと多いはず。ぜひ、イメージしてみて会話を楽しんでくれたらいいなと思います。

ま、これを一言で表すと、ブレインストーミング的に「とにかく置いていって、あとで検討する」ってパターンにしちゃえば、コミュニケーションってうまくいくんじゃないかなあーってことですね◎

共有地におかれた共有知ー共通言語ーを意識していくと、「本当は何を伝えるべきか、受け取るべきか」ってことのヒントもくれるので、なにかと便利ですよ。

それでは今日も素敵な1日を🌿