死ぬのも、大変だ。

どうも、店主いずみです。

死ぬのも、大変だ。

つい、昨日、「ああ、死にてえなあ」と思った。もちろん、そんなことに対する「覚悟」やら「本気」なんてものは、ちっとも持ち合わせちゃいない。でも、そういう悪いことの想像力だけは、この日本人に生まれた天性のものがある。

昨年は、有名な芸能人がふたりも、同じ死に方をした。

どうしてだろうかと思うが、他人から見えて幸せな暮らしというのは、本人にとってどんなものであるかということは、誰にも想像しようがないのである。ぼくは今、大変幸せな暮らしをさせていただいてはいても「死ぬ想像」くらいは、するのである。

先ほども書いたように、そんな「覚悟」も「本気」も「くそ」もないわけだけれども、天性の想像力をフルに発揮して、その苦しみから、ジタバタと空を翔ける足元さえ想像するのである。

そうすると、本当に悲しくなる。

悲しくなると分かっていながらそんなことをするなんて、本当に不幸なことと分かっていながら、そうせざるをえない。誰かから見て幸せな暮らし、相対的に見て幸せな暮らし、他人の様子を見ながら真剣に真摯に、適当になれないで生きている人ほど、死に近い。

生きることに、遠い中を、生きている。
それはつまり、死に近いということだ。

ぼくは、他人と比較しながら生きてきた。他人と比較することで自分に「足りないこと」がよく見えた。しかし、それが埋まることのない差だということに気づくと「足を知る」という言葉を知った。そうして「すでに満たされている」という感覚を得た。空も、自然も、体も、全てが揃っていた。五体不満足というには不十分な、満ち足りた体をもっている。しかし、お金だけがない。そうかと思えば、カンボジアやフィリピンで出会ったストリートチルドレンの暮らしを目の当たりにして「何が不満だろう」と、思わざるを得なかった。

日本に生まれただけで幸せだ。

よく高齢者のかたが「あの頃はよかった」といったり「俺らの時は、苦労したもんだ」といったり「あの頃は、食べるものにも困ってね」といったり「ものがなかった」といったりする。

ふざけないで欲しい。

と、思う。

まるで今が「食べ物に溢れ」「ものに溢れ」ていることで「苦労しない生活」ができる反面「よくない」みたいじゃないか。しかもそれが、あっているから返す言葉がない。

足るを知るというのは「足りないものがある状況」に置かれている人が、欲望を制御するために「足るを知る」という心構えが大切だという教えである。一方で、足りないものがあるからこそ「それを補おうとする」という動きが起こる。

しかし今は「すべてが足りている状態」であるため「足りないこと」が見当たらない。

ぼくにとっては正直、スマートフォンも、パソコンもいらないじゃないか。これ以上何も生まなくたって、ぼくたちは生きていけるじゃないか。そう思わずには、いられない。

これ以上、いったい何をのぞむというのか。そう思う。

働くというのは、その意に反して、それらを加速させる歯車である。

加速した歯車を誰も止めることはできない。人のため人のために動き出した大量生産と行き過ぎたサービス主義に、それを受け取る人は「当たり前」を手にした。それはつまり、礼節を失ったということだ。

礼節も何もない経済システムの中で、生きていかなくてはいけない。

もっとスローペースがいいと分かってはいるはずなのに、この加速は止まらない。

死にたいと思わない日本人なんていない。

生き方も、死に方もわからない今を生きている。

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