世界はゆっくりにしか進まない。

どうも、izumikunです。

兄のリハビリについて行ってきました。何度でも同じことを書きますが、兄は片麻痺という状況で左半身のほとんどに電気信号がいかず、自由に扱うことができません。そのため、リハビリテーション病院を退院してからも、定期的にプロの指導を受けながらリハビリを継続していく必要があります。兄は、いち早く仕事復帰をしたいと願っているし、そのための努力は惜しまない人ですから、自宅での練習はもちろん、通院でのリハビリも週に何度も通います。

「障害が固定してしまう前に」という制限爆弾付きの体のことをきちんと理解しているからです。障害というのは、何らかの症状が生活に不都合をもたらしていて、それが持続してくものを「障害」といって、それをもつ人、そういう状態にある人を「障害のある人」とか「障害者」と僕らの社会では呼んでいるわけです。しかし、例えば麻痺などの症状が固定するまでには時間がかかります。その時間・期間内に健側(不自由なく動かせる体のこと)に近い状態になれば、それは障害ほど生活に不便のあるものではなくなります。

とはいえ、彼の状況からすると片麻痺が残ってしまうのは必死。それでも、なるべく軽い状態にまで持って行きたい。だからたとえ今お金が飛んでいくようなリハビリの通院があったとしても、後に不自由なく働けるのであれば、何の不安もない。っていうくらいの勢いで、日々、自宅でもどこにいても回復を願ってリハビリを続けています。

そのことを今日、彼のそばで数時間過ごして感じました。

PTさん(理学療法士=動作(例えば、歩くとかしゃがむとか)ができるよう訓練してくれる人)には、

  • 患側の足のストレッチ
  • ウォーキングマシンでの歩行訓練
  • バランスボールをつきながらスクワット
  • ミニ段差をまたいで進む
  • 手前と左右に移動する訓練

などを実施していただきました。

OTさん(作業療法士=指先とか上肢を動きやすくなるよう訓練してくれる人)には、

  • 電気を流して手を開いたり閉じたり
  • お手玉をつかんで離しての繰り返し
  • 腕を肩まであげる
  • 腕を左右に動かす
  • 腕を上下に動かす
  • 指先を広げる

などを実施していただきました。

実施というか、本人の意思で動かしていくための「補助」として、そして良い方へ向かわせてくれる「指導者」として、懸命にかかわってくれていました。

本当に感謝でしかないです。ありがとう、みなさん。

でね、izumikunはその一部始終をずっと見ていたわけです。本当にずっと見ていました。彼がこちらを向くたびに、親指を立てて「GOOD!」とサインを送りました。しかし、無駄に口は開きません。すごいじゃんとも言わないし、頑張ってるねとも言いません。そんなこと言われたって嬉しくないと思うから(あくまで個人の見解です)。ただ、彼が淡々と向かっていく瞬間に立ち会う。彼以外の人間にできることって、正直、それくらいのことだと思ってます。それくらいのことなんだけど、そういうことが本当は一番難しい。

どうしても口を出してしまいたくなるし、どうしても誘導してしまいたくなるし、どうしても助けてしまいたくなる。

彼は言いました。

血圧計のボタン押して。(右の血圧を測ったら左でボタン押せないから。)

血圧の結果の数字、覚えて、紙に書かなきゃ。書いて、お願い。

ぼくは答えました。

izumikun

ボタンは分かった。でも、血圧の結果の数字は、レシートみたいなのそこから出てきてるし、覚える必要ないから自分で持ってって、自分で書いて。

と。

この時ぼくが意識してるのは「自分で書いて。」の前と後です。

「自分で書いて。」の前に、今のあなたは自分でやりたいことを達成できる状況にあるよってことを伝えることです。これはとても意識しています。誰かがいたらやってくれるのではなくて、誰かがいても、自分でできる状況を知っておくことの方が重要だと、izumikunは考えているから。助けてくれる人がいるなら助けて貰えばいいのは、助けてもらっていることによる損失が小さい人だけが発動できるスキルです。でも、彼のように助けてもらっていたら弱っていく状況にある人にとっては、助けられることによる損失が大きいです。エンパワーメントするということにつながるのかどうか若干の疑問こそありますが、彼が「自分のことを自分でする」という機会を奪わない選択をするのが、彼の周囲に暮らす人が大切にすべきものかなと思っているからです。

そして「自分で書いて。」の後に、

izumikun

できることは自分でできるようにならないとね。

とは、言わないことです。これは、近しい関係性の人は言いがちだと思います。でも、こんなことは言われなくても分かっているんです。できることは自分でできるようになりたい。それでも、どうしても頼りたくなる時もあるし、人がいたら助けてくれるようにも思ってしまう。それはほんの一瞬のゆらぎに過ぎなくて。ずっと「やってよ。」と思っているわけじゃない。そのほんの一瞬のゆらぎを全体として見て、自分でできるようになろうとしてないって思って「できることは自分でできるようにならないとね。」なんて、あたかも「あなたはできていないから、できるようにならないとね。」って言っているようにも聞こえちゃう。もちろん、できるようになるために、自分でやってもらう環境を整えるのは、周囲の意識によって作っていく必要があると思う。でも、それを言葉にするのはNGです。

で、そういうやりとりをしたり、彼の様子をずっと見ていたんだけれども、人の成長スピードって、むちゃくちゃ遅いってことに気付きました。「彼が」ってことではなくて、そこにいるどの人も、むちゃくちゃ遅い。遅いってのは誰かと比較してってことでもない。自分たちが思っている「これをすれば、うまくいく」みたいなものは本当にないんだなってことがよく分かるわけです。つまんない作業をひたすら繰り返していくしか、成長とか向上とか回復への道はないわけです。左足から前に出す。右足から前に出す。今度は後ろに下がってみる。そうすると左足じゃ支えきれないことが分かるから、その練習をしていこうとなる。その練習をするためには、またつまらない反復を繰り返さなくちゃならない。それでも、どこまでやれば治るのかなんてことも分からず、ひたすらにやり続けなくてはいけない。

人生は短い。でも、人の成長ってのは、自分たちの想像を超えて遅く、とてもゆっくりなものである。だから、逆に捉えたら、焦る必要もない。そう思った時、ぼくは彼を観察することに「退屈さ」を感じなくなりました。時間がかかるものだという認識でいれば、焦る必要も、期待より遅いということに対する苛立ちも、不安も抱えなくていい。

人は遅いんです。だから焦る必要もないんです。とはいえ、ただでさえ遅いからこそ、1日をちゃんと積み重ねていかないと、たどり着けない場所ってのもあるわけです。積み重ねていくからこそ、たどり着ける場所もあるわけです。遅いからこそ、ゆっくり進んでいる自分を咎めない。ゆっくりでいいんだよ。遅くていいんだよ。多分、そーゆーもんだから。

izumikunが弟として、兄にメッセージを伝えたいのは、そういうことだなと今日1日一緒に過ごして思って、そういうメッセージを言葉ではなく、行動で示して行きたいと思いました。

ぼく自身もWEB制作のこととかシェアハウスのこととかいろいろやることはあるけど、ひとつずつゆっくりと進めて行きたいなと思います。焦ったり、苛立っていたり、どうしようもなく苦しい時っていうのは、よっぽど勉強をサボっているか、一足とびにものごとを進めようとしている時です。そういう自分を戒めて、きちんと自分のいる場所を確認して、ひとつずつ進んでいきたいと思いました。

そういう意味では、izumikunも兄と同じスタートラインに立っています。兄弟共々、楽しんでやってくよ。

それでは、素敵な1日を。
またね。