たまに来る、置いてかれてる感/それでも自分の道をゆくことで。

たまに来る。ああ、置いてかれてるなあっていう感覚。昨日から感じてたその感覚が、まさに現実となって現れた。仕事中たまたま友達がきて「神社つくるんだって連絡あったから行ってくる!」と。

あれまあ、それ、前にぼくが言ってたアイディアじゃん。

包み隠さず書くとね、そう思ったんだ。自分でもなんて小さい器なんだろうって思うけど、思ったのは本当なんだよね。

でもキングコング西野さんが言うように、アイディアには何の価値もなくて、それを実現させた人や実現させることに価値がある。だから、もはや行動に移している人に対して言えることはないし、ぼくにはそれについて語るようなこともない。ただ、昨日から感じていた感覚

ー 置いてかれてる感。

が現実味をもって、やってきた。そのことが悲しくて、悔しい。それでいて、そんなものに左右されるのは、誰かと自分の人生を比較して生きている証ってことも分かる。人の人生や幸せは、比較されるようなものでも、比較するようなものでもなく、それぞれに感じるものだから。

でも、こう言うことがあるとアイディアをシェアしようと言う気持ちが薄れる。シェアすれば持ってかれると思うから。アイディアには所有の概念が適用されるんだなあ。でも逆に、岡田斗司夫さんみたいに、アイディアを提案しまくって、でもやってくれるならいいんじゃない〜って思える人もいる。

自分にはアイディアの手数がとても少ないし、行動量もそこまでないし/作れないことは自覚してる。だからこそ、その中でなんとかかんとかやってる。その一つをシェアして持っていかれた(他方は、自分のアイディアだと思っているはずで。)となれば、失ったものは大きい。だから悲しいし、くやしい。

でも、こうやって書き出してみると、なんだかすっきりしてきた。「ああ、先越されたなあー」って笑って伝えられそうな気がしてきた。そんなこともないのかな。真ん中くらいには戻ってきた感じ。

昨日から「置いてかれてる感」がある。それは、身近に、世界に、社会に、あらゆることから置いていかれてる感。これはぼくが、いろんなことを気にしないってこととか、気にしたことを追い続けられないってことも原因だと思う。

誰がどうなっていったのかって言うことが追い続けられない。例えば、あの人が引っ越した後の話とかはあんまり気になったりしない。会った時には話題に出すけど、会ってもない時にその人のことを他の人にわざわざ聞いて回ったりはしない。でも、そう言う最新の情報を常に仕入れて、自分の記憶をアップデートし続けていく人の方が、この世では生きやすいのだろうと思う。置いてかれることがないから。だから、都会であれニュース記事を読んだり最新のトレンドはチェックするし、田舎であっても隣近所の人の動向を気にする。気にするのは、自己防衛としてであり、生存戦略としてである。とても人間的な営みなんだと思う。

なんだか置いてかれてる感じがする。早すぎる社会はどんどんと加速するから、たぶんそう感じる年月はもっともっと長くなっていくんだろうと思う。こう言うことを感じると、40代くらいの人がスマホの触り方がわからないといって嘆いてる理由が分かる気がする。だって、倦怠感がすごいんだもの。どうしようもない感じっていうのかな。

だからね、アイディアを思いついた時、それを守る方法は2つ。

  1. 誰にもアイディアを言わずに人知れず実現させる
  2. アイディアをパブリックなものにすることで、所有者も明確にする

今回みたいにアイディアを言ったまま放置すると、それがどうなろうと誰にも口を挟むことは許されませんから、ちゃんと自分の実益は自分でつくって守っていかなくちゃいけませんね。

それにしても、置いてかれてる感を味わいきったので、今はもうすっきりしました。ボチボチいつも通りほどほどにやっていこうと思います。

それでも、自分の道をゆくことで。

ぼくは本当にアイディアはあっても、それを具体的に落とし込んでいけないんです。それは主に、財政的にでもあるし、体力的な問題でもあります。でもそれは致し方のないことで、変えられるようなものでもありませんから、ポジティブな意味合いで諦めていたりします。

だから、お店のことをもっともっとと変革をさせながら、趣味的なことを向上させていくことは多分難しいし、自分の許容範囲を超えちゃう。人生若いうちにいろんなことやっとく方がいいのは分かるけど、やれる範囲のなかでやっていくのも一つの選択。そもそも身体的なパラメータが全然違うんだから、そこを羨ましがってもしょうがないんです。

自分に与えられた体で、自分が想像しうる自分像を現実にしていくしかない。今ぼくにできること。それをただ淡々とこなしていく。

お店を淡々とただ淡々とオープンして、ひとつひとつコツコツと丁寧に作っていく。そして、この年末までの2ヶ月で英語を話せるようにと昨日宣言したから、英語の学習も毎日する。

誰がどんな人生を歩んでいようと、自分のアイディアを先に実現させられたとしても、2ヶ月後に待っているNZは誰のものでもなく、ぼくが経験する未来だ。その未来をどうしようという時、それは自分の道をゆくことでしか決定することはない。

誰が何をしてても、どうしようとも、ぼくはぼくの道をゆく。

それでいいのだ。

それでは今日も、素敵な1日を🌿