手を出すな!

手を出さない。

このことと、2019年に行ってきたヴィパッサナー瞑想修行で学んできた、自分の内側を観察することは、とても似ているんじゃないかって思う。

2016年の地球一周の船旅の船内にあった幼稚園では、モンテッソーリ教育を実践していて、大人たちはみんな、数十時間の「観察するだけ、子どもたちに対して何もしない」と言う訓練を受けてきていた。 ▷参考論文

「自分の内側を観察する」ということを、社会関係(この場合は、”私ー子どもら”という関係性)に対しても実践している例なんじゃないかと思う。

何が正しいというわけではないけれど、ぼくは、その流れにのって、ものごとを見ているところがある。

それでいうと、実際に子どもたちと関わろうというとき、そのズレを感じる。

「危ない状態にある」とか「困っている」という状況に、手を差し伸べる。これを優しさというけど、助けてもらえる状況でできることは、それなりのことになる。

おばあちゃんのために手すりをつける、スロープをつける。でも、その手すりやスロープは誰だって使うことができ、実際に使うこともあるだろう。そうすると、手すりやスロープがあるなりの生活になる。たとえどんな齢であろうとも。

甥っ子や友達の子の面倒をみることがある。ぼくはずっと観察する。すぐには手を出さない。あぶない、から、脱出させない。あぶないから気をつけるようになる。

車輪の再発明(おなじものを作ってしまう例え。)のように、自分と同じ辛い目を味わって欲しくないというのは、親の願い。だから、思いのほか、助けすぎてしまうし、快適すぎる環境を作りすぎてしまう。便利であるほうが、よしとしてしまう。

優しさが度を過ぎれば、単なる干渉になる。その人の意思決定を邪魔することになる。その人の行動範囲を狭めるようなことになる。

観察。手を出さない。口を挟まない。ただ、隣に存在しているだけで(あなたの存在を認めているよ)と伝えられる、存在であること。

人とつながるのは、たぶん簡単だ。そこに「あそこの店がうまい」とか「あの人が上手」とか、そういうアレコレがついてくると、優劣やら評価といった競争原理に巻き込まれていく。いいや、自分で巻き込んでゆくことになる。

それは、近しい人との関係でもそう。観察、観察、とにかく観察。口を挟まず、手を出さない。口を挟んだり、手を出したりするのは、自分の保身を含んでいるから。あなたがそのように振る舞うと、私がこう思われる。そんなことを考えていたりする。それならそれで、そういう自分を観察して、伝えてみよう。提案してみよう。もしくは、そんな自分に変化を求めてみる。

観察する、口を挟まず、手を出さず。

淡々と、湧水のままに、流れてゆく。川から急に手が伸びて、鹿を捕まえるとしたら、そんな怖いことはない。洪水で荒れて、決壊することはあるかも。それはそれで「あー、決壊してんなあ」って観察する。それはそれで、そんな自分に口を挟まず、手を出さず。落ち着くのを、待つ。その間には「ちょっと待っててね」って、周りにも伝えておけば、大丈夫。

他人を観察せず、口を挟んで、手を出して。そういうことは、川から急に手が伸びて、引き摺り込むような、そんな恐怖現象なのかもしれない。それを自分からやっていて「自分が正しい」と思い込んでしまっているのだから、大変困ったことになる。

そんなことより、観察。口を挟まず、手を出さず。自分にできることを、する。仕事を選んではいけない。選ばず為して、為したその先、選ぶ権利は生まれるものと、醤油の先生言ってたな。

手を出すな、それだけがルール。

言ってみれば、それ以外は自由。

それでは今日も、素敵な1日を🌿