つながっているよ、離れていても。

僕たちは、よくも、悪くも、つながっている。たとえ、どれだけ離れていても。不思議なことを言うと思うだろうかー。いやはや、そうは思うまい。どんなところにいても、つながっているよ。つながっているよ、離れていても。

ぼくたち。つまり、ぼくとあなたは決して重なることはない。触れることはあっても、溶け合うことはない。どれだけ近くにいても、ひとつになることもない。でも、ひとつになったかのように感じる時もあるし、どれだけ遠くにいる人でも、そばにいるような感じになる。そう言うことは、多かれ少なかれ、人生のどこかで感じるものじゃないだろうか。ぼくは、そう言うことが、たびたびある。

ぼくの人生では、友達が3人、天国へ旅立った。いや、現世から離れて、どこか遠くへ行ってしまった。いや、火葬場で燃やされて、灰となってしまった。いや、永遠の笑顔を残して、遺影という形となった。いろんな表現があるかもしれないけど、ともかくぼくの感覚では

遠くにいった。

そんな感じがするのである。

遠くにいるーその人ーを思い出すと、まるで手を握っているかのように、まるで胸の内から心臓を叩くように、まるでひとつになったかのように思う。不思議なことに、物質的に存在している「誰か」よりもっと近くに感じることさえある。

まことに、不思議なことなのだ。

ぼくは今日、車中泊をしている。

パートナーのバースデープレゼントのひとつとして「車中泊に一緒にいく」というのを計画した(計画したのは昨日)。ミュージアムに行ったり、カフェに行ったり、レストランで食事をしたり、スーパーで買い物をしたり、車の中で自炊をしたり。そのひとつひとつが新鮮で、楽しい。なんてことないことだけど、幸せを感じる。

そして、行く先々で、人に出会う。

ミュージアムでは友達に、カフェでも友達に、レストランでは友達の馴染みの方に(話してみると数年前に会ってたっぽい)。普段はどこか遠くにいる「誰か」に再び、出会う。遠くにいるーその人ーは、会っていない間も、同じようにすぎていく時間を旅していた。旅の途中で、もう一度出会ったのだ。これは、いたって不思議なこと。

日常の世界には存在しない僕らは、その外側にお互いの世界をもっていて、暮らしている。そんな僕らが一歩自分の世界を飛び出せば、外の世界を尋ねていける。それが旅なんだと思ったりする。そこに「距離」など、関係はない。遠くに行けばいいというものではない。世界の外側は、自分の小さな小さな世界の、1センチ先にある。そこからは無限に広がる冒険の始まり。それが旅。

と、少し話が逸れてしまったけれど、僕たちはきっとどこかで生きている(思い出してくれる人がそこかしこにいる)。ぼくはそういう人を、とても近くに感じる。

遠くに行った3人は、いつもぼくの近くにいる。今日出会った人、出会い直した人もまた、いつもぼくの近くにいる。どれだけ遠く離れていても、それぞれの世界を旅していて、その外に一歩出てみれば、もう一度会える場所に僕たちは旅をしている。そこに距離があったとしても、つながっていると、いえやしないかー。

悲しい気持ちになることもある。どれだけ近くにいても、遠くの存在に思える日もある。遠ざけたい日もある。遠くにいる人が、なぜ今近くにいないのかと、反対に嘆く日もある。人生には、いろんな1日がある。

それでも、ぼくは一人じゃない。そして、例え一人になったとしても。一人じゃないと思える。

なぜなら。

友達はみんな、その物質的な距離にかかわらず、きっとどこかに旅をしていて、重なり会えると知っているから。ぼくが外に出れば。友達が外に出れば。きっとどこかで巡り合う。

1日が始まり、出会い、また寝て、起きて、出会い直す。

パートナーと「一緒にいる」というのは、決して、物理的にそばにいるという意味だけではない。それぞれが旅をし、旅のことを共有しあえる、もっとも近い存在とも言い換えられる。決して、ひとつに重なっているわけじゃない。それぞれがそれぞれに在り、そして共に在るということ。僕たちもまた、それぞれの世界の旅を楽しむことで、出会い直せる。

僕たちは近くにいる。でも、離れている。それでも僕たちは、つながっている。

今日はそういうことを感じた日だった。

友達から、新しい命の知らせが届いた。

つながっているよ、離れていても。

今日も素敵な1日を🌿