“うるさい”に飛び込んでしまう。

そう思う。気づいたらYouTubeを開いては、自分の人生をなんとかしてくれそうな言葉を探している。成田悠輔さんの社会に対する鋭い指摘や本質をついた言葉は、ぼくを高みに運んでくれているような気がして、何度も動画をみてしまう。当人としては、新R25のインタビュー動画で、こんな動画を早くみるのをやめて、自分の好きなことしてください。と言っているのだから、みている側からしたら、思想をインプットしようとすればするほど、思想の反対へ向かっているような気にもなる。

そんな矛盾を孕んだ行為としての「YouTubeを見てしまう」という徒労がすっかりと身についてしまってやめられないのだけれど、これを「”うるさい”に飛び込んでしまう。」と表現してみた。

というのも、非常に驚くべきことに、YouTubeあるいは映像をもたないメディアであるVoicyやなんかでもそうだが、聞けば聞くほどに、本編前の広告を聞いたり、それをスキップするための数秒を待つ間に聞こえる音に対して”うるさい”と感じるようになってきた。というか、本編で語られるあらゆる論議について語られる言葉についても、同じように感じるようになってきたんですね。

うるさい。シンプルにそう感じるんです。

そこに飛び込んでいく自分がいることに気づきました。これは中毒性の高いメディアであることから、アルコール依存症的な側面が、ぼくをそうさせるんだろうと思っています。誰が悪いでもなく、その仕掛けの中にハマってしまっているので、よし、ちょっくら抜けてみようと思ったわけです。

あの人すごいから。ということでよく聞いている人たちの声、価値観、思考を一旦シャットアウトしてみる。もちろん自分の人生に参考になるし、とてもタメになるから聞いているのだけれど、あまりに自分の生活で直面している課題とは「乖離」があると分かっているのだ。分かっているがやめられないのが、中毒という症状がもつ性質だ。誰が悪いわけじゃないのだ、これは人間の特徴の一つなのだ。それをうまく使ってマーケティングしたり、PRするのが市場なのであるから、常にそこに足を突っ込む消費者としてのボクがそれにハマるのは、当然のこと。

だから、誰を責めるでもなく、ボクはただ、この”うるさい”という感覚にしたがって、このカルマを止めてみようと思う。

そして空いた時間にできるようになったことは、本を読むことだ。そして、本を読む中で出会う価値観や言葉や想像力を、書き留めて置くことだ。それから、書き留めた「何か」を現実に引き戻し、実現させること。この3つのことに取り組めるようになった。あるいは本を読むことと同じレベルで、自分の関心ある動画や音声を、ノートに書き留めながらインプットするようになった。しかも、アルゴリズムで出てくるものではなく、自分のなかのホットワードで検索したものから1〜2本を厳選するようになった。その程度であれば、きちんと自分の中に知識や価値をストックしていけると思う。

大切なのは、インプットするものと自分の生活感との「距離」だと思う。いくら誰かにとって素晴らしい情報でも、今現在の自分の等身大にフィットする、あるいは、近しいペルソナにフィットする情報でなければ、それを処理するだけで自分が消費されていくだけにすぎない。自分の生活に適したレベル感の情報、もしくは、ちょっと先の自分が直面しそうな情報。そのくらいでいい。

学ぶとか勉強するというのは、立派な考えを知ることじゃない。そうではなく、自らの人生を彩るための「何か」であると思うのだ。これは意図せず手に入ったものが、幾ばくかの未来で実をつける可能性もある。だからと言って、やたらめったら情報を取りに行くのは、次のテストの範囲を知っているのに、わざわざ教科書の端から端まで勉強するようなものだ。

必要なのは、必要な分の学びだ。ボクたちは、情報のスピードに合わせて生きなくてはいけないと思っている節があると思う。そうではない、人間のスピードで、情報を置いていけばいい。それで事足りる。

“うるさい”。これはアレルギー的な反応だと思う。入れすぎたんだ。必要以上にインプットすること=目的としてしまった結果だ。ボクはこの”うるさい”から飛び出してみた。

そして、人間のスピード。いや、自分自身の速度で、この世界の1日を淡々と生きてみようと思う。本を読むのは、自分の速度でしかない。インスタのストーリーやリールのように勝手に流れていく訳ではないし、勝手に再生されることもなければ、唐突に広告が入ることもない。本を読むというのは、生活のレイヤーをひとつ減らして、自分の速度で学べる手段である。そして、ノートに書くのもそうだ。あくまで主観だけれど、自分自身の内側にストックしていける速度は、書く速度と同じくらいなんじゃないかと思う。そして、インプットして、書き留めたアウトプットを、さらに見たり読んだり声に出したりインプットして、また整理をしたりして、そうやってインアウトを繰り返した先に、実現、創造をしてみる。

合理的にみれば、その実現したイベントやなんかの参加者が1名だけだったら「そんなの意味がない」と結論づくかもしれない。しかし、それでいいのだ。そういう無駄とも思える行為こそが人生における重要なテーマなのだと思う。

成田さんがABEMAで取り上げられた時に、焚き火なんてものは環境破壊だ。でもこれを環境に良いか悪いかで判断すること時代、実は間違っていたんじゃないと思う日も来るかもしれない。こういう無駄な行為がこれからの救いなんじゃないか。と、こんなようなことを語ってる。

人生、暇つぶし。

合理性だけで、良し悪しだけで判断をして生きていこうとした結果、ボクは中毒になり、スクリーンの世界が現実と直結していると勘違いをしていた。でも現実は、違う。スクリーンとは全然別の動きをしている。合理性と不合理のあいだを行ったり来たりするのが、この社会であり、この社会に暮らす人間なのだ。

この”うるさい”社会は、あっという間にボクたちを空っぽにする。だが、それは、誰のせいでもない。そういう原理・原則のもとに今が生まれているのだ。だから誰の責めようもない。だからこそ、自分の感覚をよく観察してみるのがいいんじゃないかと思う。

そうすると、きっと見えるものがある。ボクは発見した。

本を読み、ノートを書き、表現する。

いくら遅いと言われようが、結果をもたないものだろうが、それでいいのだ。この方法は遅いから違う方法でやらなきゃ。これは「スピードが速いほうがいい」という価値基準にある世界線に生きている人の指標であって、それは自分の人生の指標なのか。そこを問う必要がある。自分の人生の指標であるなら、それでいい。そうでないなら、そうでない道があるはずだ。

本より音声の方が便がいいだろう。ノートよりもipadにメモする方が便がいいだろう。表現もブログよりもSNSがいいだろう、音声や動画がいいだろう。それは、誰の人生観なのだ。

ちゃんと見つけよう。

アテンションに支配されるな。
人気の奴隷になるな。
↑これは落合陽一さんの表現だけれどね。

そんなことを思ったよ。