苦しんだり、悩んだりすることがある。そういうことが自分にもあるし、友達のそういう話を聞くこともある。
その時、特に友達からの相談があった時、ぼくはいたって平静なふりをして、話を聞く。聞いたことの中に光を探して、手繰り寄せるように、道を紡ぐように、言葉を選んで、放つ。伝える。届くように。
そういうことを繰り返してきて、最近少しだけ難しい話題にも直面して、思うことがある。
それは、
分かっててもできないことがある。だから、苦しいのだ、ということ。
起こった出来事について、やんややんやと議論する。そうして「聖者のような振る舞い」をなぞるような話の展開をしてみては、えらく解決策を得たようにふんぞりかえる。
その納得感が相手に見られないと、少し不満になったり、そっけなくなることもある。
でも、今改めておもう。
そんな聖者のような、分かったような振る舞いは「分かっててもできない」だから「問題は起きる」のであって、それが苦しいんだ、と。
だから、すべてはあとの祭りなわけだ。
その瞬間分かっていることを、いかに為すか。これがとても肝心なこと。
わかっていてもできないことがある。だからこそ、分かっていることが、分かっている通りできるように、精進する。
そういうつもりでいることが大切なのであって、決して、反省して落ち込んでいるようでは、見込みはない。分かっていることができなかった、ああくやしい、ああ苦しい。
じゃあ、どうしたらできるだろうか。あるいは「問題が起きる条件」のどこを変えれば、うまくいくだろうか。
そういういくつかの実験、試行錯誤を経て、実ってゆくものがある。今の人は「実験」ということばが好き。試行錯誤は、もっとわかりやすい。試して行う。そこには、錯誤=つまり、まちがいってのはあるってことを示唆してる。
試してダメならどうする?なんてのは愚問で、試してダメ?なあに、ダメで元々、生きてるだけで丸儲けって感じで、やってりゃあ、まあそうそう死ぬこたないわけさ。
気持ち的にも、関係的にもね。
と、ここまで書いても、分かったつもりで出来やしない。そういうくらいでいいからね。
ではでは、今日も素敵な1日を🌿