10,229 STILL ALIVE

自宅の整理整頓しました。

昨日から泊まりに来てくださってるイッシーさんと一緒に

  • ベッドの組み立て
  • インパクトドライバーを借りに行く
  • 台所の壁棚づくり
  • 泉に湧水を汲みにいく
  • まな板を浮かす棚づくり
  • 切れた電気の紐をなおす

をしました◎

ひとりじゃあ事が進まなかったことが一つずつ動いた。これは本当に本当に嬉しいこと!ベッドをふたつ並べて、柵をとる。古くなった板を適当にカットして、ヤスリをかけて、お借りしてきたインパクトドライバーでL字金具を取り付けて、設置!一つ一つのことは単純だけど、金具とかビスの径が合うようにとか細かな調整がいっぱいある。どの位置にたなをつけるかとか、どこにベッドを配置するかとか。板の幅はどのくらいにしたほうがいいかなとか。

そういう一つずつは進めようと思っても、案外進まなかったりもする。今日は、その事がちょっと進んだ。いや、だいぶ進んだなあ。イッシーさんのおかげだなあ。わざわざ常滑まできて、一緒になって過ごしてくれてありがとう。

一緒に喜んでくれたことも嬉しかったなあ。ゆっくり作業しながら「友達ってなんだろうね。」とか「うどん食べながら口喧嘩」とか。なんか、よかったなあ。

時間を生きてるって感じがした。生活が少しずつ彩られていく感じ。そういう予感めいた1日でした。

働き”すぎ”を、問い直す。

8月の1ヶ月を休もうって思った理由は、いくつかある。

まず、暑すぎます。暑すぎて、死ぬ人がいます。

死者数は、上がったり下がったりを繰り返しているので「そこまで、大したことないじゃん。」と思えるかもしれませんが、そんなことはありません。猛暑日の気温が底上げされていくにつれて、死亡者数の最低値も少しずつ上昇していることが分かります。

毎年、少なくとも500人以上、多い時では1000人を超える人が亡くなっています。人が誰かと生きていくとき、そのコミュニティにおけるちょうど良い人数を「ダンパー数」といいますが、これは、150人と言われています。

人が生活する上で、関わる人の数が、150人程度がちょうど良いということです。SNSでどこまでも人と繋がれる時代だけれども、それでも、この数は今も変わらないと言われています。

500人も1000人も、その人一人一人の一生が消えゆくことだけでなく、残された人にとっての一生分の仲間が消えることに等しい。

恵みをくれる太陽で、死ぬ必要はない。

先日、栄養不足だったんじゃないかとされる学生が、帰り道に熱中症で倒れ、他界したそうです。詳しいことは知りませんが、「500人死にました」とか「1000人死にました」とか、そういうことじゃないんだ。

ぼくは、アリーが体調が悪いって聞いて、すっごく心配になる。クーラーのない、涼の取りにくい場所で2ヶ月を過ごしてる。(まあ、ぼくもクーラー使ってないけど)それでも、やっぱり心配になる。死んでほしくないって思う。生きていてほしいって思う。

自分の子が死んだ、だなんて何を思えばいい。何を言葉にすればいい。これから先、一体何を喜んだらいい。人ひとりがいなくなるってことは「報じられること」よりも「データで語られること」よりずっと、重さのあるものなんだ。

兄が熱中症で倒れ、もともと持っていた(そうとは知らなかった)もやもや病によって細くなった脳内の血管に、水分不足によってドロドロになった血液が塞がり、脳梗塞になった。2度倒れ、余命宣告もされた。一生車椅子とも言われた。

それでも立ち上がって、今は半身麻痺でも、仕事復帰して、同じような境遇の人が助かるようにってYouTubeで発信活動をしてる。

今を思えば「よかった」と思える。でもな、そのことが「幸せ」だって気づかなくちゃ。倒れてからじゃ遅いから。

怖がってばかりいても何もできないけど、ぼくは「そこまでして働く必要はない」って思ったんだよね。生きてこそ。

働きすぎてるかもしれない。

暑すぎるから、クーラーをかける。高騰する電気代。クーラーをかければ、電気代が上がる。支払う電気代が上がれば、生活を圧迫する。生活が圧迫すれば、生活を切り詰める必要が出てくる。多少の余裕があったとしても「将来のための貯蓄・投資」を考えると、休むわけにはいかない。ローンもあるし、奨学金の返済もある。結婚や出産も、学費もある。休めない。

飛躍した話かもしれないけど「生活はつながってる」ってことだけは確認しておきたい。暑いから、冷やす。クーラーをつける。これは暑さ対策としてはむっちゃ良い手段かもしれないけど、たとえば、飲食店からしたらどうか。

ずっとクーラーをつけたまんま、お客さんをまち続けなくちゃいけない。待ち続けても、入ってきたお客さんにとっては、一瞬の喜びはあっても、それは「当然」になる。その「当然」に対して、高騰する電気代を支払うのは、苦しい選択。

人がクーラーを冷たく感じるのは、自分の体温との差によるもの。ずっとクーラーのついてる部屋にいたら「暑く感じる瞬間」がある。これは、体温が室内気温との差異が小さくなったから。かけているコストの割に、体感は得られない状態が続く。

しかも、外に出たときにさらされる外気温との差分で、体は本当に負担が大きくなる。ちょっとくらっとくるほどに。

これはね、苦しいのよ。(まあ、うちにとってはだけれど。)

働かなくちゃいけない環境づくりを、自分でしていないかー。その問い直しを、心がけていたいと思うわけであります。

「休む」の定義を、問い直す。

学生たちが夏休みを過ごすように、ヨーロッパにおけるバカンスがあるように、30歳まではバックパックをして旅をする文化があるように、週休2日もあれば4日の人もいたりー。

  • 休むって、どういうものか。
  • どう休むか。
  • どれくらい休むか。
  • 休みを、どう過ごすか。

こういうことは、文化圏や生活圏、職場環境によってグッと変わる。しかも、その場所にいる「その人が、どう考えているか」によって大きく変わる。

ぼくが大学生だった頃。大学生っていうのは「モラトリアム期間だ」と言われた。大学生ってのは、大人になるまでの「執行猶予期間である」ということ。でも、よくよく考えたら、学費に何百万って支払ってもらって「猶予期間」って、おかしい。(自分を棚に上げた言い方してるから、ここは勘弁してほしい)

そんな猶予期間を4年間「学生」として過ごす人もいた。「遊ぶ人」として過ごす人もいた。「ボランティア」として過ごす人もいた。ある人は「休学をする人」となった。

遊べるだけ遊んどけってよく言われた。その「休み」をどう休んだかは、それぞれで決めて生きてきた。人によってその濃度感は違う。

これは社会人になっても同じこと。僕たちが茫漠な時間の中で、何かを選び生きているのなら、その茫漠とした時間をどう過ごすかは、自分次第なんだ。死ぬまでの猶予期間をどう過ごすか、自分次第で、どうにでも道は開いてくる。

だから、どう働くか、どう休むかも自分次第。だから「休んでみたい」って思った。週休二日が自分にとって適当なものか。休みなく働き続けることが、ぼくの人生なのか。1ヶ月まるっと休んでみる人生を歩んでみたことはあったか。

そういうことを自分に問うような、そういう1ヶ月なんだよ。

甥っ子に、自分で夏休みを作れる大人になってほしい。

休んでいい。そのことを体現しておくことで、誰かに何か届くものがあったら嬉しい。そういう大人が増えていくことで、甥っ子に伝わるものがあったら嬉しい。

辛いことを乗り越えたいとき、あるいは、人生をもっと自由に生きたいと願うとき、ぼくのこの生き方がその背中を押すことに役立ってくれたら嬉しい。

正直、身を削る行為(経済合理性では説明つかないよね。)だってことも承知の上で、変え難い人生の手触りをもって、よしとする。

そういう思いがあるんだよ。

だからね、働き「すぎ」を問い直して、休むということについて見つめ直す。

いつもお世話になってる工務店さんが「いずみくんに習って、俺も休もうかなって思ってる。本当に働きすぎはよくない。でもさっきスケジュール組んでたら、そういえば予定いっぱいにしてたな。いかんな、ちょっと減らそうかな。暑くていかんし、体が一番だからさ。」と、少し、届いているものがあると教えてくれた。

でもこのことのヒントは、8月を休業していた友達のカフェの実例をベースにして、工務店さんから教わった教訓もとても生きている。

本当に疲れる前に休むんだよ。疲れてから休むと、戻りが遅い。でも、ちょこちょこ休んでると、ずっと働けるからね。休むとなったら、ちゃんと休むといいよ。

工務店さん

と、そんなことを話したら「あれ、そういえばミヤゾンが言ってたやつパクってるだけだよ。笑」とこっそり教えてくれた。

ごめんね、を繰り返すのは。

自分が正しいと思うことがたくさんあって、でも、関わる人が多ければ多いほど、その正しさとはちょっとズレた感覚に「小さな我慢」を繰り返す。本当は、助けてもらってると思う反面「そうじゃない。」って心の中では思ってる。だからこそ「ごめんね。」って言葉が口をついて出てくる。「こんなこと思ってごめんね、でも、、、」って本当は思ってたりする。

だからこそ「ごめんね。」と言っちゃう(んじゃないかなって思う)。

例えば、理想としてる彼氏像があって、パートナーに対してよき振る舞いができなかったとき「ごめんね、ダメな彼氏で。」って思ったり、言ったりする。でもそれは、本当の意味で謝っていることとは言えない。だって、相手とは関係なく「自分」と「自分の理想」の間にある距離をはかって、申し訳なさを勝手に感じているだけだから。

大事なのは、ありがとうを伝えること。その意識をもっていると、相手に目を向けることができる。パートナーのことを思って、動くことができる。「ごめんね、ダメな彼氏で。」だなんて言葉はきっと出てこなくなる。謝るときってのはいつも「自分」と「自分の理想」との間が埋まっていない時に起こる。

そういうことが起こった時に「ごめんね」が生まれることもあれば、「ごめんね。」をいうことで、そういうことが起こる場合もある。ぼくはそうやって考えて「ごめんね。」って言わないようにしてる。すると、自分の「こうしてほしい。」「理想とする自分」「プライド」みたいなものへの意識が小さくなっていく。ちょっとくらいの口喧嘩じゃあへこたれない。相手に対して意見を通すことが重要なんじゃないからね。

「なんで分かってくれないんだろう。自分の意見が正しいのに。」じゃあなくって「ぼくの話聞いてくれてありがとう。君の話、伝えてくれてありがとう。」そうやって伝えていく。「正しいのに。」って言葉にしたあと、出てくるのは「ごめんね。」だけど、「ありがとう。」の後は「こちらこそ。」だから。

(何ができるわけじゃないけど)ちょっと心配になる。心が揺れる。胸の奥底に隠れているように思える「何か」が見える。きっとたくさんたくさん、胸に秘めたものがあるんだなって思う。

そんなに「ごめんね。」なんて言わなくていいんだよ。自分を隠して、傷付けなくっていいんだよ。大丈夫。「ありがとう。」ってそのままに。

いつもありがとう。ってシンプルに。

今思っていること。

8月のお暇をいただいていて、思う。「ああ、幸せすぎるなあ」と。

収入こそないけれど、時間はある。

その時間をつかって、

  • 藍染の仕事をさせていただいたり
  • マルシェ出店の手伝いをさせてもらったり
  • 竹の伐採から流しそうめんやったり
  • 釣果1の釣りに行ったり
  • 朝から公園でヨガをしたり
  • 水のお話と聞いて行ったら勧誘だったり
  • 友達の整体院1周年のチラシ作ったり
  • コンサルみたいな時間作ってもらったり
  • ベッドを組み立てたり
  • 台所に棚を作ったり
  • 友達と口喧嘩をしたり

なんか、全部幸せだなって思うんだよね。

やりたいこと一つ一つを実現させるために、そのための材料を集めて、現実に持ってくる。そうやって一つずつ、暮らしがより良くなっていく。

今までは、お金が足りなくって買いたいものも買えなかったから、買いたいものを買うためにお金を稼いで一つずつ集めていった。(正直)今でも、買えないものがたくっさんある。でも、今買える買いたいものを買って、作って、必要なものを一つずつ揃えることでやりたいことができると分かった。「お金」っていう指標を外して、ただこの命に紐づいた時間に向き合ったとき、なんか「喜びしかない」って思ったんだよね。

でも、当たり前が当たり前になってしまうように、このことに「喜び」を感じなくなる瞬間が多くなってくるんじゃないかって思うと、途端に「むなしさ」のようなものを感じるようになった。

できるようになりたいことができるようになった時、ぼくは何を思うんだろう。今のぼくは、ちょっと虚しさっていうか、寂しさを感じたよ。

そんなことを今日、思ったよ。

幸せの向こうにあるものを見つけた感じしたんだよ。

とっても大事な1日だったんじゃないかと思う。

それでは、今日も素敵な1日をー。

*取材の依頼が2件いただいているので、本当にありがたいです。