あんたには無理だよ。

と言われることが、ごくごくたまに、ある。この時世にあっては、なかなかそのような言葉を言われることはないだろう。でも、この「正直者の暮らす町」では、そうしたことを”事始めの前”に言われることとなる。どうしてそんなことを言うの?そう思うかもしれないけれど、その問いが立つ時点で、虚をつかれているというわけだ。

ぼくは「どうかなあ、無理かなあ、できるかもしれないよ?」とそう答えた。もう一人は「やってみる前から言っちゃあいけないわよ、何事もやってみないとね。」と言っていた。「そうですよね。」と笑いながら僕も応えた。けれど、これを書きながら、そうか。とも思った。

無理ってのは、よくよくみると「理(ことわり)が無い」って書くんだな。思い出したことがあった。あんたには無理だよ。と言われた後に、続けて、

その人

あんたの作業を続けていくなら、草を刈って、それを捨てに行って、防草シートを剥がして、耕して、肥料をやって、植物を植えたところで生えてくるかも分かったもんじゃない。ずっと家が立っていた場所なんだ。土がありゃあどこでも畑ができるってもんじゃ無いんだぜ。全く大変なことを引き受けたね。

と話をしてくれた。

そうか、今思えば、自分には理(ことわり)が無かった。その人が言っていた「事の順序」の何一つ想像しないまま、草刈りを始めていた。ぼくは「知っているって言うのは、大変な事だなあ、無鉄砲にはいられない。」と笑って言った。

今のいままで知らなかったけど「有理」と言うことばも有るらしい。有利ではなく、有理。道理が有ることをいうようです。

ぼくにとっての有理は「ここで始めるまでの理」で、その人にとっての有理は「ここでやっていくための理」。ぼくは”その人”がもっている理について考えを広げていくのが苦手なんだと思う。ここまでずっと、ふわっと始めてきた。そして、ふわっと今がある。

ぼくには、理がない。だから、ぼくには無理なのだ。でも、理なくやってきた、そういう有理の道に立っている。言葉遊びとも思える本当のこと。無理でもともと。そういう時間を生きてきた。

あんたには無理だよ。

そうか、ぼくには無理か。無いのは、理。理とはルール、畑の作り方、野菜の育て方、藍の育て方。そういうことを知っているか、どうか。でも、知っていることだけしかやれないなら、人間、生きているのが先か、肺が呼吸を繰り返すが先か、よくわからなくなる。知らないことをやって、知っていくっていう有理もあるだろう。無理を繰り返すことを、無理くりって言うんじゃないか。

無理くりやると有理。有理はいつしか、有利となり得る。

今日もそんな言葉遊びで、言葉のパンチに対抗してみたり。

ではでは、今日も素敵な1日を🌿

花束みたいな恋をした。を、カミさんとみました。ケンカの展開がぴったり一緒すぎて「自分達のための映画じゃないか」と一緒に笑いました。社会を外れたと思ってる自分も、それなりに「普通」なんだと、社会的な快楽を体感したのでした。男と女の、感じ方の違い、捉え方の違いによって、理解し合えない部分はあるけど、伝え合ったりするのは大切。少しずつ、何年経っても知らないこといっぱいだからね。少しずつ、わかり合っていこうね。決めているのは一つだけ。一緒にいること。それだけでいいからね。