時間を泳ぐ

  • ぼくは、今日、おばあちゃんの誕生日のため、名古屋で家族とご飯を食べていた。お昼からお酒を酌み交わし、テイクアウトしたお寿司をほおばり、甥っ子たちとともに95歳のおばあちゃんを祝った。生き続けていてくれること、集まるきっかけをくれていること、ともに笑って写真を撮れること。ぼくはいつも通り、照れっぽく、内側をみせない感じのぼくのまま、家族と過ごした。
  • 曜日には、意味がある。月火水木金は「働く日」だし、土日は「休む日」とか。人によってこれは変わって、ぼくにとっては、土日は「働く日」だし、月火水木金は「働く日」だったり「休む日」だったりする。働く日の「成果」によって、休む日の「生活」は変わる。そして生活は、成果によって規定される。
  • 昨日は、あまり期待した成果がなかった。そして、今日も成果を期待はできなかった。「成果」とは何かーという文脈を読める人なら【人生はそれだけじゃない】と反論がありそうだけど、それは知ってるー。知った上で、整理する。ぼくは「成果を得られなかった。」と。その成果を受けて「さて、これは自分の生活にとって、どうなんだ。」ってことを見る。ちゃんと受け止める。
  • そして結論が出た。
izumikun

成果はないけど、今日も生きてるし、幸せだよな。家族やパートナーとおばあちゃんの95歳を祝って、一緒にご飯を食べて、明日はお店をあける。火曜日は、藍染のための蒅の仕込みをするよ。友達と文化をつくるんだ。この2日、成果は限りなく小さかった。それでもぼくの生活は続く。続いた先で、きっと成果はある。大丈夫だ。今日も、素敵な1日だったな。

  • 「自分がいる位置に気づいているかどうか」で、心持ちは変わる。そしてぼくは、考える。「成果を上げるためには、どうしたらいいだろう。」そういうことを、生活の中に見つけていく。生活の中にある、成果であることを忘れてはいけない。いいや、忘れたとしても、僕たちは思い出さねばならない。
  • ぼくは今日「そうか、ぼくは時間を泳いでいるんだ。」と、そんなことを感じた。
  • おばちゃんは「波」についての話をした。うまくいくときもあれば、行かない時もある。面白いと思ったり、思わなかったり。取り掛かっている仕事も、進んだり進まなかったり。一概に「何時間あれば作れる。」とかいう、そういう話じゃないって言ってた。どれもこれも「波」についての話だった。
  • その波を、どう捉え、受け流し、泳ぐか。泳ぎ方にもいろいろある。ただ揺られ、浮かび、運ばれていくのもいい。逆流をもかきわけて、押されながらも進むもいい。かきわけなくても進んでいく流れを味方にして、もっと早くと掻き泳ぐもいい。
  • 波にたゆたう船の上で、指を吸う。吸った指は少し濡れている。濡れた指にあたるもの。その方向を感じ取る。太陽の位置、風の向き、強さ、陽の傾き。波の様子はどうだろう、色はどうだろう。雲の位置、かたち、流れはどうか。飢えはあるか、食料は潤沢か。
  • 今、ぼくはこの波を、どう泳ごう。今日、この今を、どう生きよう。
  • 月曜の夜は、大人の勉強夜会だ。学びのための時間の波を立てている。毎週月曜の夜のこと。ぼくはMEM.にいる。泉のほとりで、待っている。ただただ永遠に、時間を泳いでいく。

そういうわけで、今日も素敵な1日を🌿

追伸:昨日、来てくれた人がいることに対して「成果がない」と書いていることについては、便宜上、謝罪を申し上げる。来てくれた人には、心から感謝をしている。一人ひとりの重なりが、生活に結びついていることも知っている。その上で、ぼくはぼくの「現状」を確かめなければ、先へは進めない特性をもつ人間であることも、伝えておきたい。そして最後に、何はともあれ、最後まで読んでくれたこと、受け止めてくれていることに、感謝を伝える。ありがとう。あなたの今日が、健やかなることを願うー、今日も素敵な1日を🌿