どうも、izumikunです。
今回は読書ログ。
読んだ本は、
です。
どうしてこの本を読もうと思ったの?どんな本なの?
対話をシゴトにする中で「言葉にならないこと」に対してどうやって向き合うか模索していました。そんな時、たまたまパートナーがもっていたこの一冊を手に取りました。「このくらいの年齢には、このくらいのことができて当たり前」と、ぼくたちは無意識にジャッジをして生きています。しかし、すべての人が、自分の想いをそのまま言葉に出したり、表現できたりするわけではありません。この本の主人公「イド」は、脳から体への伝達がうまくいかなくなる「自閉症」といわれる障害を抱えています。これにより、多くの人は「この子は、理解ができない」と誤解し、彼は苦しみました。しかし、伝え続けることを諦めなかった。この本は「自閉症の人のへの誤解を解く決定的な一冊」であり、あらゆる困難を抱えるすべての人の背中をおす、勇気の一冊でもあります。
今回は、この本から学んだことをシェアします。
それでは、どうぞ。
結論:言い訳が言えなくなります。笑
ぼくたちの多くは、手も足もあります。
目もあり、口もあります。
そして、
この手足や目や口を「思った通りに動かすこと」ができます。
しかし、主人公イドは「思った通りに動かすことが、できない」のです。
そんな彼が、本を書くに至る経緯や、自分が向き合う「自閉症」を理解していくプロセスがこの本には書かれています。
ぼくは肺に疾患こそありますが、こうして文章を書くことができ、笑いたい時に笑うことができ、話したいことを話すことができます。
それでいて「やらない理由探し」をしたりします。
できる、ゆえに、やらない理由を探すのです。
そんな稚拙な言い訳が金輪際できなくなる、そんな一冊です。笑(ぼくの場合です)
つらい現実から逃げ出す麻薬
話そうとしたことが、そのまま言葉にならない。代わりに、スティム(自己刺激行動)という動きが表現される。
イドの場合は「手をパタパタとさせる」のが、これにあたる。
どうしようもなく抵抗できない癖といったら伝わるだろうか。
例えば、試験前になると部屋を片付けたくなる衝動に、似ている。
また、スティムは「ストレスが多い場合」は、やめるのはもっと難しいという。
ストレスが溜まった時に、お菓子やご飯を食べ過ぎてしまうのも、これに似ている。
ぼくたちは、その程度にかかわらず、自分の理性と行動がうまく合わない時がある。
つらい現実から逃げ出す麻薬に、イドと同じくぼくたちも抗えずにいるのかもしれない。
しかし、ぼくたちはまだ、そこに抗えるだけの「情報伝達」を体内で行える。
そのことを理解し、それぞれのスティムを小さくしていきたいと思った。
「伝わらない」という絶望を、感じたことがあるだろうか。
よく、パートナーとの喧嘩をしているときに起こりうるフレーズとして、
「ねえ、聞いてるの!私の話聞いてよ!」
「聞いてるってば!なんだってんだよ。」
「全然、届いてない!もういい!」
こんなやりとりは、よくある。笑
こういう時ぼくは「なんで、伝わらないんだろう。」と絶望することがある。
でもそこには、いつか伝わるだろう…という希望をもてる余地がある。
なんとなく
「ま、明日になったら、落ち着いて話せるだろうな。」
と思える自分もいる。
しかし、イドの場合、自分の頭では周囲の状況はすべて理解できている、にも関わらず、表現できるのは「手をパタパタさせる」だけ。
周囲から見たイドの印象は「私たちの言っていることは、理解されてない。この子は理解できない。」となる。
そして、唯一の表現手段である「手のパタパタ」さえ、「手を、静かに。」と言われてしまうのだ。
この絶望がわかるだろうか。
すべて分かっているのに、何もできない悔しさ。
ぼくたちの自分ごとに置き換えてみると、わかっているのにできないことって、どれだけあるだろうか。
挑戦していることがある人には、そういうこともあるかもしれない。
しかし、多くの人にとっては、わかっているけど「やってないこと」の方が多いんじゃないかと思う。
ぼく自身がその一人だ。
すなわち、わかってるなら、やる。
例えば、状況全てわかっているけれども、相手を怒らせないように、言わないようにしてることってある。
でも、分かっているなら「そこんとこどうなってる?」と確認する。
そうやって、自分達の「できる」を信じて、やらないと、衰えていくだろうね。
できるなら、やれるだけ、やっていこう。
見るべきは「できない」ではなく「できる」こと。
ぼくたちはついつい「欠点」に目を向けがちである。
それはいくつかの視点があるけれど、
- 自分はダメだと思っているパターン
- 成長が良いこと思ってるパターン
この2つがある。
しかし、できないことはできない。
例えば、ぼくは昔から身長が低い。
今でも146cmだ。
学生時代にはずっと、黒板の一番上は届かず、いつもみんなの前に椅子を持っていっては、椅子に乗って黒板を消していた。
身長の高い男子に憧れた。すらっとした女子にも憧れた。
みんなスマートに見えるもんだ。なんてかっこいいんだ。
それに比べて、自分はなんて残念なんだ。
書きながらモヤモヤしてくるくらい、自分をマイナスに見てきた。
でも、小さいからこそ、親しみやすさが生まれたりもしていた。
それに、身長なんてものは、変えようがない。
そういう「できない」に目を向けるのではなく「できる」に目を向ける。
これは自閉症の世界においても、同様だったようなのだ。
しかし、できないことをできるようにしろ!というのは、極端に言えば、車椅子アスリートに「立って走れ!」というようなものだと、イドはいう。
確かに。笑(もちろん、義足など、別の技術を活用すれば、現実的にできない話でもないことは承知の上だろう)
ぼくは戦う決意をした。
ぼくの「できないこと」はそっとしておいて、いまは「できること」に磨きをかけ、ふやしていくと。
自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで/イド・ケダー
みなさんにとっても、勇気となる一節ではないだろうか。
幸せになる秘訣は「あわれむこと」を止めること
自分の幸運に気づけば、自分の財産のありがたみがわかる。
自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで/イド・ケダー
ぼく個人として、ずっと自分に対する劣等感に苦しんできました。
そして、周囲の人に対しても、悲しい思いをさせてきたと思います。
そんな自分に対しても「悲壮感」をもって、ずっと見てきたような気がします。
人生全体がどんよりとグレーになったかのような、そんなイメージ。
しかし、自分への哀れみを手放し「今生きていることの喜び」に気づいた時、その曇りは、少しずつ晴れていったわけです。
イドは、自閉症という「思考と言葉がつながらない」という境遇は何一つ変わっていない、にも関わらず「自分の財産のありがたみがわかる」と言っているんです。
これって、並大抵のことじゃないなと思うわけです。
どんな状況にあっても、心の在り方が、人生すべてを変える。
そのことを生き様で体現しているなあと、感心します。
さいごに
というわけで今回は
自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで
の読書ログを書きました。
もっとたくさんの気づきがあるのですが、今回はここまで。
自閉症の世界を変えたイドのもっとも大きな功績は「伝え続けたこと」なんじゃないかと思います。
その願いが、たくさんの人に届いた。ぼくも発信を続けて、勇気と力を届けていきます。
私も、とても勇気をもらえました!たまには言い訳しても良いですか?笑
良いと思いますよ〜!何事もバランスですから!日々、幸せに過ごしていきましょうね〜!
それでは!
すべてがだんだんと良くなっている
今日も素敵な1日を🌿
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