【仕事の話】何かを伝えるとき「その人のこと」を考える必要があると気づいた。

いずみです。

いずみ古民家暮らし / DIY / 畑 / ブログ】

お仕事:MEM.喫茶Tokoname店主
急須を使って淹れる珈琲と菜食のごはんを提供しています。

時々、陶芸家、大工、藍染職人、お菓子屋さんのアシスタントもします。

ボランティアとして「家弁タイムズ」という子育てファミリーに(基本、無料で)お弁当を届ける活動や、子どもも大人も隔てなく対話する時間「ダイアローグ」の運営をしたりしています。


【仕事の話】何かを伝えるとき「その人のこと」を考える必要があると気づいた。

ぼくが何かを伝えるとき、ぼくが伝えたいことを伝えてきました。しかし「その人のこと」を考えて何を伝えるかを決めなければ「伝わらない」あるいは「誤って伝わる」ということになるなあと、気付いた話です。

結論からいえば「ターゲット(ペルソナ)設定が大事」という話なのですが、今までこの言葉を聞いて知っていたのですが、言葉だけでは、よく分かりませんでした。

しかし、昨日あった出来事と、今日アリーと話していたことの中から少し答えが見えたような気がしたので、シェアします。

昨日あった出来事

昨日、家弁タイムズについてお話をさせていただく機会がありました。

とるたべる農園さんのイベントで、子どもたちだけのデイキャンプの終わりかけにお邪魔して、親御さんたちに「家弁タイムズ」についてお伝えする機会をいただいたのです。

子育てファミリーに向けた活動なので、子育てファミリーにお伝えできる機会はとてもありがたいと思って、お店を途中で抜け出して、南知多まで車を走らせていただきました。

今でも良き機会をいただいたと思いますし、とるたべるさんからも「みんないい表情で楽しんでくれたし、常滑焼に興味を持ってくれた人もいたから、また何かできるといいね!ありがとう!」と素敵なメッセージをいただきました。

ただ、少しの違和感を感じたのです。

【子育てファミリーに向けた活動だから、子育てファミリーのイベントでお話をさせていただく。】

至極真っ当なことのように思えますが、実際にやってみて「うん、そういうことじゃないな。」と感じました。

*考えれば当たり前のことが連続すると思いますが、僕たちにとっては新しい発見・新しい経験値なので、お付き合いください。

“関係性”や”タイミング”ってあるよね!

お伝えする”タイミング”ってあるなあと思いました。

予定としては、お子さんを親御さんたちが迎えに来るときに、ご家族が集まるからそのタイミングで「家弁タイムズ」のことを伝えられたらと思っていました。

つまり「ぼくと親御さんたちが対等にお話ができる関係性」であると、想定していたのです。

しかし、そうではありません。

朝からいたわけでもありませんし、終わりだけ参加した小さな背丈の小坊主が何を話そうと「誰だろう、この人。」という感じで、聞く耳になるわけもありません。

また、対等などとおこがましい関係性を想定するだけに留まらず「ゆっくり話ができる状況」があるとも、想定していました。

しかし、そうでもありませんでした。

実際は、お子さんたちが親御さんたちに今日あったことを会場中をまわりながら話したり、スタッフからお子さんの様子をお伝えしたり、ママさん同士でそれぞれの身の上話に花を咲かせたり、それぞれに大切な時間を過ごされていました。

畑に広がるその景色は、本当に豊かなものだと感じました。

そこに「宣伝」が入っては、魔が差すのは明白です。

彼らの「関心」は、ぼくらの活動に向いていなかったのです。

珈琲を片手に、もう片手にチラシを持っていましたが、何度か親御さんたちの方へ歩いては戻ってを繰り返しました。

話を止めてまで伝えることじゃあないからです。

「流れ」が全く見えませんでした。「心の向き」を感じなかったのです。

イベントなどでお話をするときは

  • 話をお伝えできる関係性はあるか。
  • 話をお伝えできる状況であるか。
  • 心の向き(関心)はこちらに向いているか。

これらのことをちゃんと考えて、この土台があるかどうかを確かめてから始めなくてはいけないのだと感じました。

”住んでる場所”が違った!

そもそも「住んでる場所」が違いました。

僕たちの活動「家弁タイムズ」は「常滑市内の子育てファミリー」を対象にしています。

しかし、参加者の多くは、

  • 三河
  • そのほか常滑市以外の知多半島地域

に暮らしている方だったのです。

お誘いがあった段階で「常滑の人はいないけど、、、」というお話はちらっといただいてはいたのですが「それでも、良い機会をいただいたことがありがたかったのと、常滑にお友達がいれば紹介してもらったら少し輪が広がるかな。」と思っての参加でした。

しかし、それは「遠回り」でした。

相手にとっても「遠回り」だし、自分にとっても「遠回り」です。

常滑市内の子育てファミリーに届けたいのであれば「常滑市内の子育てファミリーに届ける」のが大正解であって、外に発信する必要はないのです。草の根として広げていく段階であれば必要ですが、今はまだその段階にありません。

活動をお伝えするときは

  • 活動の対象(ターゲット)がいる生活圏で発信活動をすること。
  • 活動の対象(ターゲット)に接続できる場所に伝えること。

2つ目は例えばですが、社会福祉協議会などに「こういう活動しています!」とお伝えして、もし困っている人がいれば教えていただくなど。貧困ということではなくて「家のことで大変!」というところに手が一つ増えればいいー。そういう気持ちだから、もし似たような人がいれば、紹介してもらえたらいいなと思う。少しでも、生活が楽になればと思うから。

常滑市内にいるファミリー向けなのに、他の地域の社協で「困っている人いませんか!?」という発信をしていたと考えると、まあ確かに不思議なことしてたなあと思います。

ぼくたちはやりたいことやるけれど、生活者としてのリスペクトはあるか。

ぼくたちはやりたいことをやる。

ぼくだって喫茶をしたり、陶芸したり、大工したり、農をしたりする。

ぼくの友達だって、複数のことをしている人が多い。

だから、どうしても、友達と同じ職業についてしまうことがある。

つまりそれは、お客さんを奪い合うことを意味する。

生活はかつて、もっと大きな流れの中にあって、小さな商いが小さな単位で存在していたのではないかーとアリーと話になった。

たぶん、以前は、豆腐屋さんとか八百屋さんとか魚屋さんがいて、個人で専門の商売をしていた人が多かった。農家は農協から仕入れ、魚屋は漁協から仕入れた。大きな流れから、小さく買い、小さなコミュニティに届けた。そういう地域がいくつもあった。それぞれでは、人は、何軒か商店をはしごをしたり、夕方には走って豆腐を買いに行ったりした。

しかし、ある時から、スーパーマーケットのような大型で、多種多様な商品を扱う小売店ができた。すると、専門商店が並ぶアーケードの街はシャッターを閉め、みんな大きな小売店へものを買いに行くようになった。大きな小売店は、小売店のわりに、たくさんものが出ていくから、大きなロットで仕入れる必要があった。つまり、生産者はもっともっとより大きく生産する必要が出てきた。それは「大きく生産し、大きなロットで販売することを是とし、それでしか生活が成り立たない仕組みづくり」に貢献することとなった。これによって、小さな生産者の商品はなかなか買われなくなっていった。プライベートブランドが登場し、その流れはおそらく大きく加速した。

しかし、事態は一変、生産者が不足する事態に見舞われた。後継者の不足による耕作放棄地の増加、人手不足による農業のオートメーション化や機械化が進み、売れるかわからないものを大きな初期投資をかけて始めるよりなく、借金の多い農業者も多いと聞く。ここに「助成金」という立役者が登場し、小さな農業者が少しずつ増えてきた。

しかし、小さな農業者が出てきた頃には「大量生産、大量流通システム」は完成していた。小規模農家さんから「農協は大量に安く買い叩かれるからダメだ」という話を聞くが、それに頷くと同時に、農協側の意見もわかる。MEM.小さな単位でメニューを作るけれど、たとえば100食分の豆腐が必要となった時に、50食分しか用意できないと生産者に言われては困る。つまり、流通する人や販売する人は、生産物ありきなものだから、やはり「必要な分、欲しい」というのは当然の理屈なのかもしれないなと思う。

だからもしかすると、小さな農業者たちは今、大きな流通に載せることなく、自分達の周囲で販売する方向にシフトしている可能性がある。あるいは、より遠方の人に自分達の手で届けるためにオンラインストアを立ち上げたりということも考えられる。もはや流通の機能を、個人が手にできるようになった。しかし「人手が足りてない」という現状はいまだに変わっていない。だから、届け手は多い方がいい。しかし、大手スーパーの扱い量には足りない。

だから、今もやっている小さな小売食料品店においてもらうことも考えうる。しかし、自分で売った方が利回りがいいから、自分のところでも売る。すると、商圏がそれとなく被っていると、小売店の利益が小さくなる。あるいは、マイナスになる。そうなると、人手がますます減っていく。

ある意味では「小さな小売店」が増えてきている今、かつての「小さな専門商店」が並んでいた頃を想起させるかもしれない。しかし、生活単位はかつてのものより遥かに大きい。商店街の頃とは比べ物にならない。

つまり、小さな小売店同士で関係する機会は少なく、その分の接触機会は減り、リスペクトは小さくなる。ましてや、生産者が自分で販売ができる時代なのだから、生産者から販売者に対するリスペクトは非常に小さいものとなる。

こんなようなことを話していた。

ぼくたちはやりたいことをやる。

でも、そこにリスペクトはあるだろうか。

今では「特別」などということはどこにもない。

珈琲屋だから生豆から自家焙煎しているーなどというのは、もはや特別なことでも、かっこいいことでもなんでもない。自分でできるのだ。なんでも。

どこの豆であろうと、大概の豆は買える。

ぼくたちは一体、どう生きればいいんだろうか。

知りたい人に、届けよう。

ぼくたちはやりたいことをする。

トレーサビリティだとかいって、どこどこ農園のものを使っていますとか、どこどこの醤油を使っていますという公開をするのが当たり前になっている。

この潮流は、陽の目を浴びなかった仕事に光をあて、その後継をつくるのに非常に役立っているとは思う。

でも「別に知りたくないよ。」「私いらないよ。」という人に届ける必要はない。

今回の「家弁タイムズのこと」は、伝える必要はなかったかもしれない。

紙に書いてあって、読みたくなったり、不意に読んだ時に「こういう活動あるんだ」くらいでいい。

そして「それってどういう活動なの?」と尋ねてくれる人に、一所懸命にお話しさせていただく。

なぜならぼくたちは「無益なことへは無関心」だから

ぼくたちは「無益なことへは無関心」である。

地球環境が悪くなってるから、環境に良いことしましょうね。と言われたところで何も思わない。お客さまの手に渡るプラスチックの量を減らしました。と放送が流れてきたら「あ、プラスチックの量減らしてて素晴らしい!」となる。手に渡っていないだけで、量は変わっていないことには気づかない。

自分達にとって「利益」でも「損益」でもないから。

家弁タイムズをちゃんと「常滑市内の子育てファミリー」にお伝えしたら、その人にとっては「利益」となること間違いはない。だから、関心を示してくれると思う。

でも、他の地域の人に説明したとしても、その人にとっては「損益」ですらない。「無益」である。むしろ、話を聞き続ける方が「損益」とさえ思うかもしれない。それよりも、目の前のママさんと話をしたいとなって然りだ。

  • 相手にとって「無益」であれば、届かない。
  • 相手にとって「利益」か「損益」かを考えて、伝える。

たとえば、自分達は食空間を通して、知多半島の豊かな農業や伝統文化について伝えたいと考えている。でも、どこどこ農園のだれだれさんが、こういうこだわりを持って作ったお野菜を、こういうふうな調理手順で、こういうこだわりを持って、こういう味に仕上がるように作りました。なんて、全ての料理で説明されたら「流石に、お腹いっぱい」となること必至ではないか。

それより、食べたい。

これが本音だ。

急須珈琲でさえ、簡単な説明を始める前に、注ぎ始める人がいる。正直、何がどうだろうと、どうでもいいのかもしれない。「これも常滑焼ですか?」「はい、常滑焼です。」このくらいの情報量でいいのかもしれない(もちろん人による)

おわりに:

【仕事の話】何かを伝えるとき「その人のこと」を考える必要があると気づいた。

こんなテーマで書いてみましたが、実際にお店の「物販コーナー」に立って、自分なら「お土産になるようなものを探している時」このコーナーには何があったら嬉しいだろう。と考えてみると、いろいろ思いつく。これ、値段いくらだろう。と思うだろうな。だって、値札がないんだから。

元々は「コミュニケーションを作りたいから」という理由で、少なくしている部分はあった。でも、コミュニケーションの産み方としては、歩み寄ってなさすぎた。どうやら現代人のコミュニケーションは「会話」に重きがない。

そんなことも感じつつ、ちょっとこの気づきをベースに、お店のこと見つめ直したいと思います。

それでは。

以上、いずみでした。

それではみなさま
今日も素敵な1日をー。