愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。について、言葉にしてみてやっと考えたこと。

昨日、ブランディングドクターのふたりに来てもらって、喫茶店の方向性を決めるような話し合いをした。

その時、歴史のことは好きか。そういう方向でお店を作っていくのはどうか?という問いがあった。

それに対して、愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。だから、歴史について知るのは、自分のためにも素晴らしい選択だと思います。

そう答えました。

でも、正確ではないとも後になって思いました。

人間には、愚かなところもあります。それゆえに賢者を目指すのです。

ぼくの母はよく「何事も経験」というのが口癖でした。そういう文脈で言えば、ぼくの母は愚者ということになります。

しかして、経験は、愚かな行為でしょうか。いいえ、決してそうではありません。経験は、自分をより新たな場所へと運んでくれるものです。

つまり、正確にいえば、

賢者は歴史から学ぶが、そこにある真理は、経験なくしては真偽を問うことさえできない。愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ。その教訓さえ知っていれば、己の愚かさを賢きところまで揺り戻すことができるかもしれない。そのためには、歴史を学ぶ必要がある。限られた時間のなかをどう生きるかにおいて、過去の過ちを繰り返すのは、なんとも勿体のない話だ。歴史の中に見る失敗を学び、今の生き方に活かす。それこそ賢者である。

そういうことだ。母がどうであれ、ぼくは今、愚者であるが、賢者のように、歴史から学ぶことも多い。どちらかではない。どちらにどれだけ寄っているか。賢者的要素8割なら、それは多くの人から見て、賢者である。

まずは、そこを目指す。

歴史に学び、失敗を減らす。しかして、失敗こそ、成功を見つける鍵となる。ああ、これが彼らの見た失敗か。そう思えたとき、成功にひとつ近づける。

つまり、われわれは、賢者であり、愚者なのだ。どちらでもあるのだというこの認識を、わすれてはいけない。

どちらかに寄った時。それは奢りか、卑屈。どちらかの始まり。

真ん中でいい。行ったり来たりでいい。

賢者であり、愚者である。車輪の再発明も、歴史の失敗も繰り返す。それでいい。ただ、過去より一つでも二つでも、失敗を経験せぬまま生きてゆきたいものだ。

人生は有限だ。限りある人生の中で、どれだけの時間を賢者となり生きられるか。愚者として生きるのか。その選択を、意志をもって決断しよう。

同じ過ちをするのは、

自分がクリアしたゲームをまさに今、友達がやっていて、それを隣で見ている時の気持ちになれば、そのもどかしさに気づく。

ああ、そのボスは、そのタイミングで攻撃してくるから、そっちに逃げちゃダメなんだよなーーーみたいな。

人生には、意外にも、ゲームの攻略本的なものが存在する。それを読むか、読まないか。実行するか、しないか。それだけで随分の人生のスピードや質が変わる。

ぼくは今日、どちらの道を行くだろう。失敗をして経験し「歴史を学ぶのは大事らしい」と気づいて、賢者に近づくのか。はたまた、経験したことの範囲で生きると決め、広い世界を知ることなく愚者の道を行くのか。

ぼくは今日も、それをひとつずつ確かめながらゆく。何の話や。

それでは今日も素敵な一日を🌿