ぼくたちが生きる理由

いずみです。

いずみ古民家暮らし / DIY / 畑 / ブログ】

お仕事:MEM.喫茶Tokoname店主
急須を使って淹れる珈琲と菜食のごはんを提供しています。

時々、陶芸家、大工、藍染職人、お菓子屋さんのアシスタントもします。

ボランティアとして「家弁タイムズ」という子育てファミリーに(基本、無料で)お弁当を届ける活動や、子どもも大人も隔てなく対話する時間「ダイアローグ」の運営をしたりしています。


友達が「大事な時」にある、だからこそ。

ぼくたちの日常に起こるいくつもの「問題」や「課題」のほとんどは【わかっているけど、できないこと】だらけである。つまり、全てはカッパえびせんなのだ。つまり、全てはスーダラ節なのだ。「答え」という探し物は、かばんの中にも、つくえの中にもないのなら、とりあえず踊ってみよう。大事な時だからこそ、踊ろう。落ち込むことなく、踊ろう。


ぼくたちが生きる理由

そんなものはないと、ぼくは断言できる。

そんな大きなものを探そうとするから、足元にある大事なものを「大きな事」と思えずに、小さく小さく見積もって、ないがしろにする。自分探しの旅だとか言って地球を一周してみたが挙句、結局なにも自分などというものなど見つからず、ただ美しい建造物にカメラを向け、ただ僕たちの社会とは関係なく延々と波打つ水面にうつつを抜かし、帰ってきた街で見つけたのはただ、ちっぽけな自分の無力さだけだった。

ただ今日を懸命に生きる。目の前の人の幸せをつくる。できることをやって、できるだけのことをやって、目の前の人の幸せをつくる。その姿勢や過程が、人との関係をつくる。その関係に起こるのは、なにも喜びだけじゃないが、辛く苦しいことがあるからこそ、できっこないこともあるからこそ、喜びもまた一入である。日々とは、ただその繰り返し。生活というのは、その繰り返しに変化を加え、一つずつの積み上げをしていくことにより、より豊かになっていくもの。

できることが増え、幸せにできる人の数が増えていくということ。生かされているこの命を活かすことで、ようやく成し得ること。大事なのは、得るものではなく、与えるもの。どれだけ与えてきたかが、その人の最後を決める。

ただ私個人を思い、生きる理由を探す。そんなことの中に「生きる理由」など、見つかりはしない。

ぼくらは今日も生きる。
何を得るかではなく、何を与えられるか。

全うするーというのは、ぼくらの【すべて】をかけるということ。

今日、ぼくらは何を与えられるだろうか。
何を与えあえるだろうか。

その道を、ただ今日も歩いていく。

おわりに:

以上、いずみでした。

それではみなさま
今日も素敵な1日をー。

今日の一曲(前に紹介したものと被ることもあるよ。)