なんとなく分かっていることを、端からやっていく。

いずみです。

いずみ古民家暮らし / DIY / 畑 / ブログ】

お仕事:MEM.喫茶Tokoname店主
急須を使って淹れる珈琲と菜食のごはんを提供しています。

時々、陶芸家、大工、藍染職人、お菓子屋さんのアシスタントもします。

ボランティアとして「家弁タイムズ」という子育てファミリーに(基本、無料で)お弁当を届ける活動や、子どもも大人も隔てなく対話する時間「ダイアローグ」の運営をしたりしています。


報告し合える仲間がいたらいいよね。

なんとなく生きてるのもいい。むしろそういう仲間も欲しい。これと同じくらい、互いに取り組んでいることを報告し合える仲間がいたらいいな。仕事のことでも、趣味のことでも、人生のことでも。報告し合える仲間がいると、たぶん今向き合っていることが、もっと輝く気がするよ。最近、近所で野草研究会やってる人もいるらしいね。ところでイッシーさん、欠点豆だけドリップして飲んでみる会と、欠点豆でマラカスを作る会しましょう。


なんとなく分かっていることを、端からやっていく。

分かってる、でもできないってことばかり。

ぼくは今28歳で、自分では「そろそろ良い年だよな。」と思いつつも、周囲からは「まだまだ若いから、なんだってできるよ。」と言われる。ただ、その言葉とは裏腹に「その歳で、このくらいのことしかできないの?」という視線や言葉尻に出会う。

ぼくだって、ぼくたちだって「やれてない」ってことくらい分かってる。「どうしたらできるか」もなんとなく見えている。「どうしてできていないか」もある。

でも、ぼくの人生を「途中から見始めた人」にとっては「え、この部分、こう直した方がいいのにね。」と思えることばかりかもしれない。きっとそう見えていることが多いと思う。

でもね、若人は多くの人が考えるよりずっと「分かってる」んだと思う。でも、それでも「若さゆえ」にできないことが多いんだと思う。「知らない」ってことは、多分今の時代、よっぽど少なくって、むしろ知っているけど「腑に落ちてないこと」が多いんだと思う。

「できない」ってことばかりなんだ。

「できない」のは「やってない」から。

そんなぼくが、そんな僕らが「できない状態」になってしまったのは「やってない」からに他ならない。情報が簡単に得られるようになったからこそ、情報だけを飲み込むだけの日々を送っている人は少なくない。

ぼくは「勉強が足りない」と思ってた。だから、勉強夜会というイベントを通して「勉強する人・学ぶ人をふやしたい」と考えた。でも違った。もうみんなパンパンなんだ。学んだり、得たりした知識がありすぎて、もうどうしようもない思いを抱えて生きてる。分かってはいるのに、できないことばかりなんだ。

痩せた方がいいと思ってるけど、ダイエットはいつも明日から。
学んだ方がいいと思ってるけど、ついついスマホで漫画読んじゃう。
やめときゃいいのに、吸い込まれていく千円札。

十分な知見が僕らにはある。その知見を活かして「やってない」から、腑に落ちないし、身にならない。やっていれば、できる。

元吹奏楽部のぼくがよく言われたのは「練習は本番のように。本番は練習のように。」という言葉だった。準備が大事というけれど、成果が見えるのは、日々の積み上げ(=準備)をしてきた人だけなんだろうな。

なんとなく分かっているけど「できない」ことを、端からやっていく。端っこには「これならできそうだ」と思えることが必ずあるはず。探してみよう。

「やる」ために「やらない」を決めた

前に進みながら、後ろに進むことはできない。何かを「やる」と決めた瞬間は、それ以外は「やらない」と決めた瞬間でもある。

だから「やらない」も決めた。

しばらくは

  • 友達のお誘い
  • 無理な出店
  • 意図のない出費
  • むやみやたらなお手伝い

これはやらない。

でも例えば、友達を誘って家をDIYするとか、人を誘って畑づくりするとか、そういう前進は呼びかけてやっていきたい。

だから「塩梅」はあるのだけど、そんな感じに決めた。

「なんのために、やってるの?」

これも報告し合える仲間がいたらいいな。ただの雑談ではなく、もう少しクローズなところでシェアし合いたい。だってその方が「ちゃんと話を聞ける」から。

おわりに:

以上、いずみでした。

それではみなさま
今日も素敵な1日をー。