というブログを書いているのですが、自分の根底にある思いは
そのうちは、やめよう。
ということ。
これは親戚の尼さんが説法の時にお話ししてくれた、相田みつを「そのうち」という詩からとっています。
そのうち お金がたまったら
そのうち 家でも建てたら
そのうち 子供から手が放れたら
そのうち 仕事が落ちついたら
そのうち 時間のゆとりができたらそのうち……
そのうち……
そのうち……
と、できない理由を
くりかえしているうちに
結局は何もやらなかった空しい人生の幕がおりて
顔の上に 淋しい墓標が立つそのうちそのうち
日が暮れるいまきたこの道
相田みつを「そのうち」
かえれない
親戚の尼僧さんがこのお話をしてくれたとき、ぼくの兄弟は「本当にそうだ。」と思い、そのとき抱えていた彼の課題にきちんと向き合い、解決すると決めたそうです。
しかし、その後、彼は脳梗塞を患い、倒れ、今は半身麻痺を抱えた状態で生きています。こうかくとずいぶん重たいように思えるけど、彼なりの辛さを抱えながらも彼なりの幸せと一緒に生きているから、大丈夫。
でもね、そういうことを経た今やっぱり思うのは、
そのうちは、やめよう。
これに尽きるんだよ。
だからね、そういうことを忘れないために、
#そのうちはやめようブログ
って名前にしたの。
忘れたくないことは、生活の中にあると便利だよ。
.
MEM.ってお店の名前も実は、そういう理由でつけてる。
忘れたくない、いつまでも隣にあるような、そういう記憶がぼくにはあるから。ちゃんとそういう大事なものと一緒にいる。執着とはまた違うもの、これに気づくには、”執着”という概念に対する”執着”「それは執着だよ」「いや、それって執着じゃない?」そういう気持ちから離れなくちゃならない。
そうすることでやっと、執着ってこういうもの。そして今自分は、それとは違うけど、似て非なる、でもどこか柔らかく温かい気持ちの中にいる。そんなふうに思えるようになる。
執着から離れたいと思うなら「そのうち。」なんて思わずに、いますぐ離れたらいい。
どんなことも、もっともらしい言葉を並べて、やらない理由を見つけても、やりたいことは見つからない。頭で考えることが適している人、そうでないなら、足が動いた方向に進んでみたらいい。手が動いた何かに熱中してみるといい。耳や鼻や口で受け取った何かをもう一度、愉しんで見たらいい。よく目にする何かを、もっと見てみるといい。
手がないから。
足がないから。
動かせないから。
体力がないから。
身長が低いから。
頭が悪いから。
不器用だから。
ぼくの人生、そんなことばかりだ。
でも同じ理由で、人は、生きる力を見出せる。
そのことだけは、真実だと思う。
五体不満足で生きている乙武さんを前にして「足がないと走れませんよね。」と言ったところで「頭と口動かしてテレビにも出て、先生もやって、本も出して、××もして幸せですよ。」と返事が返ってくるだけだと思う。
この世界にはいろんな「道」があって、自分に合う「道」を見つけるまでは、どうにもうまく行かないことばかりかもしれない。それでも、道を見つけるまでは「そのうちやるよ。」なんて言わずに、やってみてから「違ったな」とか「これはいけるかも」とか、感じてみたらいい。
やってやめたって別にいい。ただ、やらないのは罪だよ。
そのうち。
そんなものは、きっとこない。
そのうちよりも、
今のうち。
そういうつもりで今日も行く。
そういうわけで今日も素敵な1日を🌿
p.s.英語学習がどんどん楽しくなってきました◎