10,236 STILL ALIVE

今朝、起きたら寒かった。クーラーかかった部屋で、コンクリートに直接タイルカーペット敷いたようなカッチカチの床で寝て底冷え。凍えて、目が覚めた。夏だぞ。地球は夏だぞ。違うか、日本が夏なのか。夏なのに寒いって変。変だよなあ。夏にカーディガンが売れるんだもんな。あっつい外で「かき氷食べたーい!」と行って入ったお店はクーラーがんがんで、もはや(体を冷やすために)かき氷を食べる必要はないけれども(しかもそれを分かってはいるんだけども、もはやそういうことではなく、とにかく食べたいのだという止められない欲求だけで)、かき氷を注文するのである。

ぼくたちは、そういう今を生きている。

さて。(いや、どういう始まりなんこれ。)

今日は、おっかあ(母親のことを、そう呼んでいる)と一緒に、実家の片付けとか、裏手の草取りとか、仏花を買いに行ったりもしたり、お墓の掃除とか、門灯の掃除とかした。

もう死んじゃった爺ちゃんとばあちゃんと、つい先日亡くなったちえさんと、もう一人の兄弟のおじさんが4人が並んだ写真を見て「これは、」と思った。うーん、言葉にするには惜しい感覚。

防災について考えてること

防災グッズの置き場なんかを話したりもした。防災の備えとしては、よく防災バッグを準備して、避難先でも自分の生活を確保できるようにーというイメージがされる。でも、それは無理がある。部屋の片付けを想像すれば、避難所に人がごった返す理由がよくわかる。

ものは住所があるから整然と並べるのだ。人も同じ。平面に暮らすことを諦めた(いや、空へ近づいていけると明らめた)人たちが、マンションやアパートやなんかに立体的に暮らすようになった。地底人だってそうかもしれないし、トルコのカッパドキアだって、自然が作り出した岩場に洞窟のようなものをいくつも掘り込んで暮らしていた。とかく、大多数の人は「移動」よりも「定住」を選ぶようになった。

そんな定住民たちの住所は決まっていて、いつも整然と並んでいる。同じように、並んでいる物の整理をしようと、カテゴリ分けや分類をしようと「一旦、全部出してみるか」といって出してみたが最後ー。もはやフロアはものでごった返す。ものは人間よりも立体的に積み上げてゆくことができるけれど、人そのものは立体的に積み上げてゆくことは難しい。つまり、ものよりもごった返す。地上の面積が必要になる。となると、入れない状況が生まれたり、入りたい人と、入りたくてもこんなところは嫌だと思う人と、あの人とは一緒にいたくないという人が出てきたりする。これは、災害とかではなく「距離の問題」になるけど、とかく、片付けで一旦散らかる理由と、避難所で人がごった返す理由は似ている。

だからこそ、ぼくたちは「避難しない」という防災を想定してる。そもそも川がむっちゃんこ近くて、避難所が川にかかる水門なのだというから、そこに行くまでに死んでしまう。ならば、自宅での避難が最善ー、と判断してる。消防署からは「救助にはいけないから。」的なことも言われているそうで、自主的に守るしかないのである。

そういうわけなのだけど、防災のものは本当に多岐にわたる。物の「種類」が多すぎる。だから収納場所を決めることも一苦労だ。だからこそ、防災バッグにいろんなものを、ちょっとずつ入れて持ち運ばせようという提案をしている。でもそれは間違った提案だと思う。数日以上の食糧をもっての避難が「できるわけがない」という見方をする。理由は、重すぎるから。重すぎる荷物をもって避難などそもそも無理がある。車で行こう?何をいう。駐車場などを管理すれば人が生活できる範囲が狭まるじゃないか。そもそも、駐車場の車の中で生活をしていた人は「エコノミー症候群」になって、体に障害が残ったケースもある。

つまり、家で過ごすのが最善であるー(とぼくは考えている)。家族という最小単位のコミュニティで生きる選択がー。それも、半径十数メートルの範囲内の隣人と助け合う道を選ぶ方がよっぽど賢明だと思う。

例えば「おにぎらず」という「水があれば食べられるお結びの常備食」がある。これが150食ある。仮に家族4人いて、毎食2個ずつ食べたとしよう。すると毎食8個で、1日3食で24個必要だ。150食とすると、だいたい6日分の食事になる。この食事を4人で携えて、どこへ向かおうというのか。これにさらに、1日2L分の水とすると、6日分で48L分の水も必要になる。そして、なおかつカトラリーやベビー用のおむつ、生理用品などなど「生活のすべて」を運ばなければならない。

それは、正直難しい。難しいことを、難しい状況でしようとする。これは怒りを生みやすい。自分のせいではないと思いたい(実際、自分のせいではなく、自然現象だし。)でも、どちらも被災しているのだから、誰に怒りをぶつけても幸せには一向に近づけない。幸せは、状況に対してどう思うかでしかない。だからこそ、そんな時に怒らず、幸せたり得るような「準備が大事」になる。

だからこそ、防災への備えが重要ーというわけだ。

だから、防災バッグでの管理はやめた。どこで何を使うかを決めて、生活導線に合わせた整理と収納を基本に考えるようになった。すると「モノが生き生きして見える」ようになる。使われないものほど活気のないものはない。ローリングストック法というものもあるけれど、生活導線に「缶詰」や「備蓄食」がなければ、ローリングストックどころか、不良在庫にしかならない。だからこそ、ぼくたちが生活する導線に「防災」を置く必要がある。そういう整理法を意識して、今日はやってた。

例えば、懐中電灯は防災バッグに入れていても、すぐには取り出せず初動が遅れるかもしれない。だから、冷蔵庫の横にぶら下げておくとか、玄関の靴箱に入れておくとか。その時も、乾電池は入れっぱなしに(すると、放電しちゃうって感じに)せずに、すぐ隣に保管しておくとか。

そんな感じ。

来週と再来週にも1日ずつ予定日をつくって、作業は続けていきます。

母のこと

ぼくは普段からクーラーなしの生活をしているから、日陰であれば暑くても作業を続けることに耐性はついてる。でも母は違った。いつもクーラーの中で暮らしているから「あっついあっつい」と汗をかきまくってた。冷蔵庫から出してドリンクが汗をかいてるみたいな感じ。そりゃあそうだよな、と思いつつ、母の体調もちょっと気になった。

人間って体内の水分量がどんどん減ってく。赤ちゃんで80%〜90%。30歳くらいで60%〜70%。おばあちゃんになると40%とか。もっと少ないかも。となると、夏に汗をかくと、体内の水分量が減って、脱水症状になりやすい。若者よりも、高齢者に死亡ケースが多い(1000人中の80%が65歳以上とかの)理由なのかも。ちょっとぐったりしてる顔色してたから、気を遣わないとな。もうそういう年齢になる。同じ命、同じ尊さでも、同じ精神でも同じ体でもないーからね。

明日は炎天下の中で墓参りに行くから、ドリンクとか気にしよ。

暇をいかに作るかだよな ー by 兄

兄が「これ、おもろいよ。」と、本を持ってきた。

「おもろ!」と思った。

美術大学が「捨てる」ということをデザインした本。その根本概念やコンセプトが明確になった実践を集めた本。持続可能な社会をつくるアイデアをあつめた本。

こういう話題についてぼくなりの「答え」をもっていて、そこについてはちょっと今回は言いたいことじゃないから、置いといて。

兄が言っていた言葉が印象的だったので、かいとく。

環境のこととか、突き詰めたら正直「何もできなくなる」って思う。でも、こういうことを考えることが大事だと思うし、いろんな活動をみて「こういうことができるのか!」って気づけるのもいいよね。今の人は「江戸時代の暮らし」に戻るといいと思う。ただ、今と昔で大きく違うのは「循環が身近じゃない」ってこと。例えば、家で野菜を調理して、端っこを畑に撒いておく。これはコンポストを作ればいいって話になると、現代でも必ず出てくる発想。でも今は、手の届く範囲で、それができないことが多い。例えばプラスチックも、野菜の端っこと同じように、手の届く範囲でリサイクルできたらいいけど、難しい。リサイクルしてくれる人までが、遠い。でも現代は、そのために費やす時間はない。そんな暇はないんだ。だからね、暇をいかに作るかーだよな。

by 兄

だいぶ、ぼくの色をつけたけど、だいたいこんな感じのこと言ってた(はず)。

まさか兄から「暇をつくる」って発想の言葉が出てくるとは!これはむっちゃんこ嬉しい発想だなあ。「おお、」と思ったけど「それ、ぼくも思ってた!」とは言わなかった。彼の発見をただぼくは喜んだ。共感は時に人を虐げると、ぼくは知っているから。ただ彼が気づいたことを、嬉しく思い、それをただ受け取った。そういう自分がいることにも、嬉しく思った。

「おもろ!」と思った。

やっぱり兄は素敵だな。

そういうわけで
今日も素敵な1日をー。

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