8月はほぼほぼ週1で、実家に戻っている。理由は「母と、家のことをする」だ。とっても面白くって難しい話かもしれないけれど、ぼくたちは
- どこどこの国の若い人は、昼間からずっと寝てる
- どこどこの国の人は、仕事より家族
- どこどこの国の人は、誕生日は「祝うスタンス」(祝われる待ちじゃない)
- ぼくたちは、仕事するために生きてるわけじゃない
そう、思ってるし、知ってる。
でも「仕事はしなくてはいけない」ということを常套句にして、本当に大事にしたいことを遠ざけて生きているような気がする。お休み中にも「せっかくだから今日は空けてみては?」と言われたりもした。そういうことがとってもたくさんあるし、そういうことに自分を見失ったりすることもある。(もちろん、そうじゃない人もいる。)
だから
8月いっぱい休みにします
と宣言して実行することで、それを一時的に「可能」にしてみた。
正直みんなぼくよりも間違いなく年収(所得)あるだろうから、絶対できるよ。
母と過ごす時間が増えて
- 母が「私よりも先に死ぬかもしれない存在だ」と分かったり
- それでも、自分が先に死ぬこともあると気付いたり
- 家のことを見ていたくれたことへの感謝を思ったり
- 一緒に台所を掃除するなんて初めてやったなと思ったり
- ふだんは行かないけど「お茶しよ」と誘ってみるのが、照れ臭かったり
- 買い物に行くと「こういう考えがある」と伝わるんだと分かったり
- 母が家族に対してどう思ってるのかに気づけたり
- 家族が母に対してどう思っているかを考え直してみたり
- 「家事や育児は、共同。」というのが時間感覚・肌感覚で気づけたり
- 「お金がない」とは、ない袖を振るう人のことであると教えがあったり
- 変なプライドがどうでもいいと思えたり
たくさんの喜びがそこにはある。
マザコンだとか思ったかい?それは浅い感想だ。思い直してほしい。いや、思い直さなくていい。そのままでいいと思う。思ってもらって構わない。ただし、ぼくはそのようには考えてない。
ぼくたちはお互いに、互いの人生観を持ち、互いに影響し合い、生きている。家族だからーどうのこうのもあるけれど、そういうことを省いて、ぼくとぼくの家族それぞれとの間にあるものは「家族」以外にたくさんある。そういうものを、見つけたいと思っているだけなんだ。
「その人」もまた、人生という道を歩んできた人のひとり。だからこそ「今何を思っているかー」は伝えなくちゃいけない。お互いに。そんなことをそっちのけで「うざったい」とか言ってるうちに「もっと話しとけばよかったと思わざるを得ない日」がくる。日々、そんな緊迫とした思いを持って生きていく必要はない。でも、胸の内の全部にあるようなないような、そういう感覚を秘めておくことは、決して人生の重荷になることはないから。
今日は、
- 防災備蓄用に引き出しを3段買いに行き、何を入れるかが決まってなかったことにお互いに気づいて、それでもせっかく来たからにはなんとしても買って帰りたいから、買って帰るまでに20分くらいはずっと引き出しの前で話し込んだり
- ネジの寸法と睨めっこしたり
- 備蓄用の水を買いに行ったり
- 車中泊用の道具を買いに行ったり
- ついでにカフェしたり
- 3Fの片付けをしたり
- キャンプライトをいくつも試したり
- 部屋の壁も床も風呂も掃除したり
そういうことを一緒に取り組んだ。
母は「一つ進んだ。」と喜ぶ。そういうところは母似と言わざるを得ない。基本ネガティブだけど、だからこそ、そういう小さなことをポジティブに変える能力者なのかもしれない。
おばあちゃんと電話を繋いでくれた。最近は会いにいけてないばあちゃんが「やっほー!」と元気そうに90も超えた声とは思えない声で、明るさを伝えてくれた。
父には、最近壊れてしまった換気扇のことを相談した。外径と内径、羽のサイズ。金属製だとか、新しいタイプのものがあるとか、そういう大したことのない話。車中泊仕様に変えているって話。親としては「それで金になるんか。」というようなくだらん話かもしれないけど、それでも、生きてるってそういうことだと思うから。
急にウクレレを弾いてみたり、練習してみたりもしたよ。来月から月一で集まりがある。楽しみで毎日練習してる。
ぼくは、こういう人生がいいって思う人生を生きられていると思う。その上で、なんだか最近は「やりたいこと」が芽生えてきているように思う。「やるべきこと」が少しだけ分かってきたような気がする。じゃあそれでそうお金を作る?という問いにはまだ答えられていないけれど、それは多分見つかるから大丈夫。ただ、今はそのことだけが嬉しくてたまらない。
一つ、一つ。それでいい。
今日も素敵な1日をー。
明日は「ウクレレはいいね!」「島根からくる友達に会う」「ソーキそばを食べる」「棚をつくる」な1日さ!